日本の難読地名と由来~千葉編~

日本の難読地名と由来シリーズ

日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、説話として
残っているのを紹介しています。

目次の千葉県の難読地名では住所と由来が残っているのを、番外編では
住所に残ってないのを1つ紹介しています。

また、今回の難読地名と由来は長いので、「千葉県の難読地名と由来」は
約10個の所で一度区切って紹介しています。

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 千葉県の難読地名と由来(1)

園生町(そんのうちょう)

住所

千葉県千葉市稲毛区園生町

【由来】諸説あり。

1.古代の薬園の薬園生の居処であったとする説。

2.朝廷の菜園に奉仕する園部の居住地によるとする説。

3.「そね(石の多い所)・う(生)」の転訛で石の多い川沿いの

微高地を指したとする説。

千葉市稲毛区

千葉市の難読地名・珍しい地名(1) ( その他文化活動 ) – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

生実(おゆみ)

住所

千葉県千葉市中央区生実町

【由来】※ 古くは小弓と書かれていた。

    由来は諸説あり。

1.大和朝廷の時代のカラムシから布を作る氏族の

「麻績連(おみのむらじ)」(朝鮮から帰化した工人とされる)が
管掌していたことによる説。

2.源頼光が八剣神社へ大弓を奉納したという伝承による説。

千葉県の地名集

生実藩 (シリーズ藩物語)

おゆみ野History

千葉市の難読地名・珍しい地名(1) ( その他文化活動 ) – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

登戸(のぶと)

住所

千葉県千葉市中央区登戸

【由来】「のぼと」、「のぼっと」ともいう。

当地の名主鈴木家の家譜に


「筑波根の 峰の嵐を吹きおろす ふじの波間を 及ぼり戸の船」

という千葉新介(?~1336)御歌から形どって名付けたとある。

地名は「のぼり(登)・と(処)」で急傾斜地の入口を指したもの。

千葉市の難読地名・珍しい地名(1) ( その他文化活動 ) – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

千葉市中央区

矢作町(やはぎちょう)

住所

千葉県千葉市中央区矢作町

【由来】

古くは「矢作部(やはぎべ)」という矢を作る職人の集落だったとされる。

千葉氏が領していた頃も矢を造るのに使う矢竹を採集していたというから、矢をはいだ土地で「やはぎ」、それに「矢作」の字をあてて

現在の地名となったと考えられている。

また、矢竹が叢生する場所ともいわれている。

そびえ立つ千葉高架水槽 千葉市中央区矢作町、都町の地名の由来|すみ隆仁(鷲見隆仁)のブログ (千葉県議会議員候補 千葉市中央区)

千葉市中央区

千葉市の難読地名・珍しい地名(1) ( その他文化活動 ) – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

犢橋(こてはし)

住所

千葉県千葉市花見川区犢橋町

【由来】犢橋町は室町期にコテハシの地名があり、
江戸期には犢橋村と漢字が充てられている。


    由来は諸説あり。

 1.「犢」は子牛という意味で「こうじ」とも呼んだということを

踏まえると「こ(接頭語)・うし(憂し)・はし(端)」で
台地端部の洪水氾濫地または地すべり崩壊地を指した説。

2.「こじ(抉じ)・はし(端)」で浸食地という説。

3.「特牛(コトイ)階(ハシ)」が転訛した説。

「特牛」は強健で大きな牡牛を意味します。


古代で牛は戦時などの物資輸送で活躍していたため、犢橋は昔、
特牛の産地と考えられる。

 階(ハシ)はあがり階段のことを指す。

上記のことから「特牛(コトイ)階(ハシ)」とは、当地で生産した

強健な牡牛を戦地(陸奥国)方面に運ぶためには低湿地帯を抜ける
必要があり、台地面に引き上げた場所を「特牛(コトイ)階(ハシ)」と
呼び、後に「犢橋(こてはし)」と転訛したと考えられる。

千葉市花見川区

花見川流域を歩く HANAMIGAWA RYUIKI wo ARUKU: 地名「犢橋(コテハシ)」の語源

誉田(ほんだ)

住所

千葉県千葉市緑区誉田町

【由来】

八幡宮の祭神、誉田別命(ほんだわけのみこと)の名から
取ったと言われている。

誉田別命とは応神天皇の諱(いみな)です。

誉田の歴史 千葉市議会議員 みす和夫後援会

大阪の難読地名(#79)誉田 – なんぎな日記

稲荷木(とうかぎ)

住所

千葉県市川市稲荷木

【由来】

「稲を干す木」、稲木から来ている。

稲荷木 – Wikipedia

市川編(下)|地名町名の由来|ふれあい交差点|地域とふれあい がすたんパーク|ご家庭のお客さま|京葉ガス

飯山満町(はさまちょう)

住所

千葉県船橋市飯山満町

【由来】

江戸時代にあった上・下飯山満(かみ・しもはさま)に由来する。

地名の「飯山満」の語源については、


「米(飯)が山ほどできて満ちた土地」

からついたという伝えがあるが、実際には

「谷あいの場所:狭間(はざま)」

からついたものであると考えられている。

古くからの住人を中心に「はざま」と濁点付きで呼ぶ人も多く、

町内の店舗や企業の営業所などの看板に「はざま」「HAZAMA」との
表記がされているものも散見される。

飯山満ってどんなところ?|船橋市公式ホームページ

飯山満町 – Wikipedia

奉免町(ほうめまち)

住所

千葉県市川市奉免町

【由来】

鎌倉時代のことである。
難病を患った娘が乳母と共にこの地にたどりつき住み着いた。

村人が不審に思い役人に知らせると、しばらくしてその娘は畏くも

常磐井殿の姫宮、つまり後深草上皇の皇女であることが判った。

そこで鎌倉幕府は村の年貢の奉納を免ずる代わりに

この姫宮の面倒をみるように命じた。

かくして村は「奉免」されたのである。

こののち姫宮は若宮中山法華経寺の日蓮の説教に接し、病が治ったあとも

これに帰依すること篤く、やがて日蓮宗門で最初となる
尼寺「奉免山安楽寺」を開山するに至った。

皇室ゆかりの寺として、安楽寺の寺紋は菊の御紋となっている。

奉免町 – Wikipedia

市川編(上)|地名町名の由来|ふれあい交差点|地域とふれあい がすたんパーク|ご家庭のお客さま|京葉ガス

猫実(ねこざね)

住所

千葉県浦安市猫実

【由来】

鎌倉時代に、大津波で大きな被害を受けた集落の人達が
豊受神社付近に堤防を築き、その上に大きな松の木を植えた。

今後はこの松に根を波浪が越さないように願い、「根越さね」と言われた。

室町時代には「猫真」の名が見られ、江戸時代には「猫実村」となった。

また、歌川広重による「名所江戸百景」には

「根古ざね」とも書かれている。

猫実 (浦安市) – Wikipedia

地域名の由来|浦安市公式サイト

千葉県の難読地名と由来(2)

北方町(ぼっけまち)

住所

千葉県市川市北方町

【由来】諸説あり

1.崖の意味である「ほき」が訛って「ぼっけ」となった説。

2.当地に住んだ閑院家(かんいんけ)の呼び名が

北家(ほっけ)だったため、ここから来た説。

3.中山領主の北の方が住んでいたことから

北方(ほっけ)と呼ばれていたからとする説。

4.近くの法華経寺の法華からとする説。

北方町 (市川市) – Wikipedia

市川編(上)|地名町名の由来|ふれあい交差点|地域とふれあい がすたんパーク|ご家庭のお客さま|京葉ガス

葛飾(かつしか)

住所

千葉県船橋市葛飾町

【豆知識】

「かつしか」は古代からの地名で、奈良正倉院文書には
「葛餝郡」と記されている。

この郡は現在の千葉県、東京都、埼玉県、茨城県に

またがる広い区域を示した。

『万葉集』では勝鹿・勝牡鹿・可豆思賀と様々に表記されている。


また、『万葉集』・『延喜式』中には「かとしか」と
よませている例がある。

この「葛餝郡(葛飾郡)」の中央は現在の千葉県市川市の辺りであり、

現在の東京都葛飾区の辺りは葛飾西部ということで葛西と呼ばれていた。

【由来】諸説あり

1.葛の多く生えた「葛繁」が変化したとする説。

2.「カテスカ」もしくは「カトスカ」が転訛した説。

昔の言葉で「カテ」、「カト」は「崖」や「丘」の意味で、

「スカ」は川沿いの砂の堆積を表す「砂州」のことを言う。

江戸川沿いの丘陵地帯を指したとされる。

3.「かとしき(門敷)」が転化した説。

古利根川下流の入江の門戸の低湿地を整備して、集落が

立地したことによるとされる。

4.「方洲処(かたすか)」が転訛した説。

意味は一方が砂地の所。

以上が有力な説とされるが、他にもアイヌ語説やレプチャ語説、南洋系の民族が名付けたもので「狩場の方向」を意味する言葉であったという説がある。

葛飾 – Wikipedia

葛飾区の由来 – タネタン:あらゆる元ネタ・由来を集めるサイト

三ヶ月(みこぜ)

住所

千葉県松戸市三ケ月

【由来】

『松戸市史』によれば、平安京をつくった桓武天皇の血をひく中世の
房総半島を中心に栄えた大豪族千葉氏(下総初代守護:千葉常胤)により
下総の領地を治めてきた。

千葉氏の家紋(月星に由来する家紋)の月の形から
三日月を地名にしたことが有力とされている。

中世から「ミコツキ」・「ミコツイ」とも呼ばれ、

後に訛って「ミコゼ」と変化したとされる。

住みたくなる街の不動産情報センター「有限会社川津産業(積和不動産(株)特約店)」

逆井(さかさい)

住所

千葉県柏市逆井

【由来】諸説あり

1.江戸時代中期、八代将軍吉宗は狩りに来て、不動様の水が

まるで逆さにしたように勢いよく出ていたので、逆井と名付けた。

2.江戸時代に利根川の布施の堤が流され、水がこの地域まで

逆流してきたので、逆井と名付けた。

地名の由来 – 柏市立逆井中学校

五香六実(ごこうむつみ)

住所

千葉県松戸市五香六実

【由来】松戸市にある五香と六実が合併したことにより、
誕生した地名である。


五香と六実の由来については明治新政府により、小金牧

(千葉県北西部)および佐倉牧(同県北部)の開墾が行われた。

開墾地には地名がなかったので開墾順序に合わせて

数字と組み合わせた地名が付けられた。

下記がその地名である。

初富(はつとみ/鎌ヶ谷市)

二和(ふたわ/船橋市)

三咲(みさき/船橋市)

豊四季(とよしき/柏市)

五香(ごこう/松戸市)

六実(むつみ/松戸市)

七栄(ななえ/印旛郡富里町)

八街(やちまた/八街市)

九美上(くみあげ/佐倉市)

十倉(とくら/印旛郡富里町)

十余一(とよいち/白井市)

十余二(とよふた/柏市)

十余三(とよみつ/成田市)の順に地名が付けられた。

五香 – Wikipedia

五香六実の由来 | 柏の整体ならオリーブの木カイロ整体院

 土気(とけ)

住所

千葉県千葉市緑区土気町

【由来】諸説あり。

1.天然のガスがわき出るから(土から気が出る)の説。

2.土気城が峠の上にあったので「峠」が転訛した説。

3.土気太郎という人が治めていたからと言う説。

4.東上総の県→東県(とうけん)→土気に変化した説。

5.山辺郡や武射郡から上総国府に徴税物資を納める際に通ったが、

急な坂道=嶝嶮(とうけん)だったからの説。

6.鐘を打って時を知らせたので、時計という意味合いからトケの名がついたとする説。

7.かつて鴇が多かったからの説。

参考サイト様ではこちらの説を支持していました。

理由は隣町の

東金市の名前の由来が「鴇ヶ峰」ないしは「鴇が根」が転訛したと言われており、土気にも鴇が多く来てたのではないかと推測されたため。

東金市は鴇ヶ峰の他、東鐘とも言われていた。

説によってはこれらは当て字で湾曲を意味する嵶ケ嶺に由来するという。

または「とき(崖)・が(接続詞)・みね(峰)」の転訛で

崖の多い尾根という意味ともされる。
土気の由来|斎藤智士の保険日記
土気駅 – Wikipedia
土気

大豆谷(まめざく)

住所

千葉県東金市大豆谷

【由来】確たる由来は不明。

古くは大豆作村(まめさくむら?)とも書いた。

大豆谷の由来は不詳だが、谷田(ヤツダ,樹枝状谷)のよく発達した

土地が、豆作に適していたからではないかともいわれる。

当地方では谷のことを「ザク」ということもあって、

「大豆谷(まめざく)」に転化したと考えられる。

東金市(2) 難読地名と珍しい地名の由来 大豆谷,三浦名,御門,宮,依古島 ( その他文化活動 ) – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

篠籠田(しこだ)

住所

千葉県柏市篠籠田

【由来】確たる由来は不明。

平安期に志子田、室町期は色陀の地名があり、

江戸期には篠籠田村になった。

地名は「しし(崩壊地)・た(処)」の転訛で

含水量の多い崩壊地を指したもの。
柏市
篠籠田 – Wikipedia

薄島(すすきしま)

住所

千葉県東金市薄島

【由来】江戸期は薄島村。

地名は「すすき(芒)・しま(土地)」で軟弱な土地という意味。

東金市

砂古瀬(いさごぜ)

住所

千葉県東金市砂古瀬

【由来】江戸期は砂古瀬村。砂子瀬・砂小瀬とも書く。

地名は南白亀川の浅瀬沿いの砂地という意味。

東金市

千葉県の難読地名と由来(3)

若白毛(わかしらが)

住所

千葉県柏市若白毛

【由来】諸説あり。

1.記紀系譜上の5世紀末の清寧(せいねい)天皇の家来が住んでおり、
天皇の名の

「白髪武広国押稚日本根(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ)」

をとって白髪部(しらがべ)としたという説。

2.同地から源頼朝に献上したクリ毛の馬が、何時の間にか
白馬に変わっていたとの伝承が由来の説。

柏市の難読地名・珍しい地名 – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

墨名(とな)

住所

千葉県勝浦市墨名

【由来】諸説あり。

1.上古此地に春部直黒生賣(はるべあたえくろうめ)という者が
いたことから、「黒」生賣の「土」地である「名」田が短縮して
「くろとな」となり、それが変化したという説。

2.黒土の浦の略という説。

3.「と(山)・な(土地)」で山のある地という説。

勝浦市

飯給(いたぶ)

住所

千葉県市原市飯給

【由来】

弘文天皇(大友皇子)にまつわる伝説から来ている。

672年、弘文天皇(大友皇子)は壬申の乱に敗れ、東海道を下り
11人の公家を引きつれて川をさかのぼって来る途中、川岸では
6人が溺れて亡くなった。

疲れ果ててしまった皇子一行を、村人たちは追っ手が良く見える
八崎代に案内し、しばし休んでいただき、ご飯を差し上げた。

一行は大変喜び召し上がったという。

そしてこのためこの場所を飯置(いいち)といい、飯を給うたので
飯給というようになったという。

また地元の言い伝えでは、皇子には3人の子どもがあり、3人を村人に預けて千葉県市原市万田野地区を越えて落ちのびて行ったという。

村人は、3人の子供達の顔にススを塗ったりして、変装させたが、
10月の酉の日に追っ手に捕らえられ、現在の飯給駅前に見える
白山神社※1で打ち首になってしまった。

翌日から、その辺りには白い3羽の鳩が舞うようになったので、村人達が
その場所にお宮を建て祀ったところ、その日から白鳩の姿は
見られなくなったと言われる。

白山神社の事を白鳩の宮というのも、ここに由来するという。

※1白山神社の祭神は弘文天皇である。

他に弘文天皇に関係する話として、飯給から離れた匝瑳郡(千葉県に
あった郡)の野栄や旭には、大友皇子の妃に関する言い伝えがある。

「天武天皇の時、官女が兵乱を避けて従者18人を連れて東国に下った。

中臣常磐の孫 英勝が供をして、白鳳元年(672年)、下総の海辺に
上陸したが脳病により崩じたので之を埋葬した。」

そして官女とは藤原鎌足の娘、耳面刀自(みみもとじ、みみものとじ)の
ことで、大友皇子の妃のことであるとも言われている。

事実かは別にして、藤原鎌足も千葉に縁があり、当地には
「鎌足の腰掛け石」なるものが残っている。

耳面刀自の言い伝えについても鎌足の出生地の一つとされる鹿島郡
(現茨城県)を目指す中、千葉の九十九里浜に上陸したが病に倒れ
亡くなったといわれ、匝瑳市野手には媛
(高貴な身分にあった人の息女の敬称)の墓とされる内裏塚古墳※2

ある。

※2 嘉保元年(1094)に十社の中臣英勝から数えて14代目の
正勝のとき、この塚に埋められていた耳面刀自媛の遺骨を
大塚原(旭市)に移したという(大塚原古墳)。


中臣金の子英勝をはじめとする従者たちは、この地にあって媛の御霊を弔ったとされ、旭市の内裏神社※3は内裏塚古墳の墳土を分祀したものと伝わる。

また、内裏神社の近くには大塚原古墳があり中臣英勝の墓とされている。

媛の御霊をなぐさめるため、33年ごとに内裏神社から大塚原古墳を経て
内裏塚古墳にお浜下りと呼ばれる神幸祭が行われる

一方、内裏神社のHPでは妃の従者の子孫の美敷が天慶3年(940年)に
野手の墳土の一部を移して、引き続き祀ったのが現在の内裏神社と
いわれています、と記載されている。

※3内裏神社の祭神は弘文天皇と耳面刀自媛を祀っている。

飯給駅 – Wikipedia

小湊鐵道に乗ってみた ② : 路上日記 SEASON IV

飯給 白山神社 : 路上日記 神社・仏閣

もうこの森

房総史譚: 匝瑳市

内裏神社/千葉県公式観光情報サイト-まるごとe! ちば-

 国府台(こうのだい)

住所

千葉県市川市国府台

【由来】

律令制のもとで下総国の国府が設置された事に由来し、
古くは「鴻之台」とも書かれた。

国府台 (市川市) – Wikipedia

市川市|国府台・堀之内界隈

求名(ぐみょう)

住所

千葉県東金市求名

【由来】諸説あり。

   室町期には「郡名郷」とみえる藩政村。

1.徳川家康が鷹狩りの際に、当時まだ名前のなかった求名付近を
訪れたとき、「この地はなんという所か?」と問いかけた。

とっさに家来が、名を求められたのだから、求名にしようと
「求名と申します」と答えたのが由来だとされている。

2.家康が東金滞在中に九十九里方面に鷹狩りに出掛けた折、
途中のある小集落で、村人からこの地の命名を依頼され、
家康は即座に「求名」と名付けたという。

3.新しく開拓した村を何と名付けたらよいかと名前を探した結果、
名を求めるという意で求名になったとも伝えられる。

徳川家康ゆかりの地を訪ねて 東金市/千葉県

東金市(1) 難読地名と珍しい地名の由来 一之袋,家徳,求名,殿廻,酒蔵,福俵,家之子 – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

廿五里(ついへいじ)

住所

千葉県市原市廿五里

【由来】古くは「露乾地(つゆひぢ)」
「津井比地(ついひぢ)」と呼ばれていたとされる。


「廿五」は「二十五」の古字で「里」は日本の距離の単位を表します。

この文字が当てられた由来は、源頼朝がこの地にあった東泉寺を厚く敬い、
毎月焼香を行うために使者を送ります。

このとき鎌倉からこの寺までの道程が二十五里であった。

そこで古い地名をこの文字にあてたと伝えられています。

ただし伝承の上ではこうなっていますが実際の鎌倉―廿五里間は
二十五里(約100km)ではありません。

特集・地名の由来いろいろ

海士有木(あまありき)

住所

千葉県市原市海士有木

【由来】

海士(あま)と有木(ありき)が一つになって、この地名がつきました。

  海士は、その昔漁夫(海人)の集落、有木のほうは附近に有木城(蟻木城とも書く。現在の泰安寺)があった為、 その名がついたと云われている。

有木は「あらき」で、新しく開いた土地に由来する。


「海士有木」の地名の由来

木下(きおろし)

住所

千葉県印西市木下

【由来】諸説あり。

1.付近の雑木林から切り出した木を河岸から船に積み込んだ説。

2.古く永徳3年(1383)に竹袋稲荷神社が造営された時、
里見家より寄進された良木を筏に組んで運び河岸に下ろした説。

3.「き(処)・おろし(崖)」で崖地という説。

木下街道

印西市

生谷(おぶかい)

住所

千葉県佐倉市生谷

【由来】諸説あり。

    「うぶかい」とも言い、江戸期は生ヶ谷村。

1.地名は昔、豪族の娘が手繰川流域の谷地から湧き出す清水を
産湯に使ったことから「うぶゆ」が転訛したという伝承がある。

2.「おば(崖)・か(接続語)・い(井)」の転訛で
川沿いの崖地という説。

3.「負う」の転訛で山を背にした川沿いの地という意味とも考えられる。

佐倉市

神門(ごうど)

住所

千葉県佐倉市神門

【由来】諸説あり。

1.地名は当地がかつて香取神社への要衝の地で、神の門への入口と
みられていたことや、ここから東方にあった宮本の山王神社への
入口を意味したという。

2.転石の多いゴロゴロした土地を指した説。

3.「たき(高)と(処)」の転訛で急傾斜地という意味の説。

佐倉市

千葉県の難読地名と由来(4)

中尾余町(なかびよまち)

住所

千葉県佐倉市中尾余町

【由来】諸説あり。

1.寛文年間以降、武家屋敷増設に伴いできた町と言われてる。

尾余とは低地に突き出た台地のことを言い、地形の呼び名が
町名になったのではないかとする説。

2.「なぎ(薙)・びょう(境)」の転訛で
崩壊しやすい丘陵を境と見立てたとする説。

佐倉の祭礼|麻賀多神社氏子町の御神酒所

佐倉市

日秀(ひびり)

住所

千葉県我孫子市日秀

【由来】諸説あり。

1.古くは「日出」といったという。

「ヒイデ」が「ヒイビ」と転訛し、「日秀」と瑞祥(ずいしょう)
文字を当てたとする説。

瑞祥とは、めでたいしるし。吉兆。祥瑞の意味。

2.平将門の霊位がこの地で日の出を拝んだことにちなむとする説。

3.将門の遺臣の日出弾正がこの地に隠棲したことによるとする説。

4.「ひ(亀裂)・ひり(簸る)」で地崩れした所という意味とする説。

将門神社-我孫子市日秀に鎮座する平将門由来の神社、ご祭神は、平将門。 – masakadojinjya ページ!

我孫子市の難読地名・珍しい地名の由来 – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

我孫子市

珍名・難読地名の旅 – 23.日秀 – たかがカメラ、されど写真

野狐台町(やっこだいまち)

住所

千葉県佐倉市野狐台町

【由来】諸説あり。

1.地名は奴(やっこ)と呼ばれる下級武士が
住んでいたことによるとする説。

2.殿様が当地で狐を捕まえたことによるとする説がある。

佐倉市

砂(いさご)

住所

千葉県八街市砂

【由来】諸説あり。
砂子とも書き下砂(下砂子)とも称した。江戸期は砂村。

江戸初期に村の南部を上砂村として分村したため下砂村とも称した。

1.地名は「いさ(砂)・ご(処)」で砂地という意味の説。

2.この土地の土質は鉄分が多く、雨水の流れた後に
砂鉄がみられたため、砂鉄に由来するという説。

八街市

(11)八街市の難読地名・珍しい地名の由来 砂,上砂,大谷流,小谷流,雁丸尾余,皿谷,根古谷,文違,用草 ( その他文化活動 ) – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

神久保(いものくぼ)

住所

千葉県八千代市神久保

【由来】古くは芋窪・神窪・伊毛窪とも書いた。
室町期は伊毛窪村、江戸期は神窪村。


地名は「いも(傾斜地の滑落土の堆積地名)・の(接続詞)・
くぼ(埋められた窪み)」の転訛で
傾斜地の地辷り地帯を指したものとされる。

八千代市

文違(ひじかい)

住所

千葉県八街市文違

【由来】諸説あり。

1.1582年(天正10)、「小間子ノ吉田原」の戦いに敗れた
椎崎城主の椎崎三郎勝任が再起をはかるべく先発隊を
飯櫃(いびつ)村(旧・芝山町)に派遣したが、先発隊は道を
「踏み違って」飯積村(現・酒々井町)に向かったことにちなみ、
「ふみちがえ」が転訛して、「ひじかい」になったと伝えられる。

2.名主で牧士を務める錦貫家に他地区の錦貫家の文書がまちがって
届けられることがあり、「文ちがい」が「文違」になったともいわれる。

(11)八街市の難読地名・珍しい地名の由来 砂,上砂,大谷流,小谷流,雁丸尾余,皿谷,根古谷,文違,用草 ( その他文化活動 ) – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

 匝瑳(そうさ)

住所

千葉県匝瑳市

【由来】

平安時代前期の歴史書「続日本後紀(しょくにほんこうき)」によれば、
5世紀の終わり頃から6世紀のはじめにかけて、畿内(現在の近畿地方)の
豪族であった物部小事(もののべのおごと)という人物が、坂東(ばんどう)
(現在の関東地方)を征した勲功によって、朝廷から下総国の一部を
与えられ、匝瑳郡(さふさごおり)としました。

その後、小事の子孫が物部匝瑳(もののべのそうさ)氏を
名乗ったと伝えられている。

また、匝瑳の語源については、諸説あって定まっていないが、発音での
「さふさ」という地名があり、「さ」は「狭」で美しい、
「ふさ」は「布佐」で麻の意で、“美しい麻のとれる土地”であったとする説や、「さ」は接頭語で、「ふさ」は下総国11郡中で最大の郡で
あったことに由来するという説があります。

匝瑳は、「さふさ」に縁起のよい漢字を充てたものと考えられている。

匝瑳(そうさ)市の名称について – 匝瑳市

不入斗(いりやまず)

住所

千葉県市原市不入斗

【由来】諸説あり。

1.谷間の入口を「入山瀬(いりやませ)」といったのが転化した説。

2.年貢免除説

(1)土地が痩せ荒れていて米の収穫が少なかったので
年貢米を「入れ計れなかった」という説

実地踏査した方によると「そうかも知れない。」と半ば首肯できる
場所もあったが、多くは災害の年を除いて米が計る程とれなかったという
ことは首肯し難いものであった、と評している。


(2)社寺への献納米を生産する土地として、特別に公課を
免除されたので「入り計らず」という語源から来たという説。

不入斗の、「入り」とは誰かが入ることを指している能動詞である、
逆に言えば「入り…ず」とは入ることを制限されていた人々が
在った事実を示唆している。


古文書から推定するとこの制限された人は明らかに役人である。
役人が入れない土地は社寺関係以外の土地とは考えられない。

次に、この地名が「不入斗」という漢文体で構成されているという事実は、往昔の高い知識階級によって作成され、使用されている。

最も高い知識階級とは僧侶、社官及び官途に在ったほんの一部の人である。

不入斗

「不入斗」の地名の由来

「不入斗」の地名の読みとその由来を知りたい。 | レファレンス協同データベース

日本列島「地名」をゆく!:ジャパンナレッジ 第12回 不入斗村(いりやまずむら)

都部(いちぶ)

住所

千葉県我孫子市都部

【由来】諸説あり。

1.「部」は分に通じ、「一の分け」といわれる余郷を意味し、
『和名抄』の郷名(余戸)に由来するといわれる。

2.新田開発時の地割に関係した地名ではないかとする説。

我孫子市の難読地名・珍しい地名の由来 – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

丁子(ようろご)

住所

千葉県香取市大倉丁子

【由来】諸説あり。

1.古くは「丁古」と書いた。

昔は「丁」の字は「よぼろ(よほろ)」と読み、古代朝鮮語の
「ヨボ」に由来していると言われる。

本来の意味は若者の意味だったが、満20歳の呼称あるいは
成人男性が公役に出た時の呼称に変わった。

これに接尾語の子を付けたもので天皇の棺を担ぐ京都八瀬童子の
輿丁と同じか、あるいは「丁子」は香取神宮に所属する
「ようろ(労働者?神輿を担ぐ人たち?)」が
住んだところではないかと言われる。

2.「はつ(削)・ろ(袋状に入り込んだ地形)・ご(処)」の
転訛で崩壊した丘陵に袋状に入り込んだ地形という意味。

丁子

香取市

千葉県の難読地名と由来(5)

岡発戸(おかほっと)

住所

千葉県我孫子市岡発戸

【由来】諸説あり。

1.地形が“人体の陰部”に似ているからという説。

2.ほど(火処)すなわち溶鉱炉に由来するという説。

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我孫子(あびこ)

住所

千葉県我孫子市

【由来】諸説あり。

1.古代において「我孫子」は氏(ウジ)や姓(カバネ)として使用され、
大和朝廷の古い時期の官職として「古事記」等に出てくる
「阿毘古」とする説。

阿毘古は、大王(オオキミ)や有力豪族に魚や鳥などの食糧を
貢進する氏族だそうです。 

大王(のちの天皇家につながっていくとされる)は
古墳時代(3世紀から7世紀)にかけて日本列島で大きな権力を有しました。

また、大和地方の有力豪族も各地の地方豪族を支配下におさめる際に、
豊かな土地を直轄地とし、そこに住む人々から貢納物を納めさせました。

その際に土地やそこに住む人々に「我孫子(阿毘古)」という
名前が付けられたと考えられます。

我孫子市公式ウェブサイトではこの説を採用しています。

2.網曳(アビキ)が転じたとする説で、網曳はもと
宮内省(ミヤノウチノツカサ) の大膳職に属する雑供戸で、
海産の魚貝を貢進する品部とされます。

常陸川の鮭を網で捕ったりする「網引」や手賀沼の水鳥を
網で獲ったりする「網子」など、地元の食産物を貢進していた
集団が住んでいたことによるとされる。

3.アバ(くずれた)・コ(処)」が転じた崩壊地形を示す説。

4.「アミ(網)・バ(場)」の略で漁場を示す地名ではないかとする説。

5.インドシナのチャム語の「アビ(火)クク(神)」の説。

6.ヘブライ語の「Abik(我らの先祖たち)」の説。

7.アイヌ語で「ap-Kotan(釣針-村)」や
「apkot-ni(釣-竿)」があり漁業に関する地名とする説。

地勢:我孫子市公式ウェブサイト

「我孫子」の地名の由来

我孫子(あびこ)という地名が千葉県と大阪府の両方にあります。有名ではある… – Yahoo!知恵袋

小食土町(やさしどちょう)

住所

千葉県千葉市緑区小食土町

【由来】諸説あり。

1.小食土はもと「矢指渡」「矢指土」「矢指戸」の字を使っていたが、
海上(うなかみ)郡にも同じ「矢指」という村(現旭(あさひ)市)があって
たびたび誤解を受けることがあった。

そこで当時村に住んでいた漢学者の所に相談に行くと、大食の者は
蛮カラだが、小食の者は心が優しいから「矢指」を「小食」の字に
変えたらどうかと言われ、「矢指」を現在の「小食」の字に変えたと
言われている。

「指(さし)」には指差すごとく陸が海に伸びている所、日向地、
傾斜地、古代朝鮮語で城などの意がある。

2.御霊(ごりょう)神社の碑文によれば、小碓命(おうすのみこと)
(日本武尊(やまとたけるのみこと))が本納(ほんのう)(橘(たちばな)神社)に
弟橘媛(おとたちばなひめ)を祭祀し、さらに東国に向かう途中、
当地で休息をした。

その時村人が献上した間食を尊が召し上がり、この故事により
当地を小食土というと記されている。

3.「や(谷津)・さらし(曝し)・ど(処)」の転訛で
湿地のある崩壊地形という意味。

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千葉市緑区

御霊神社

中峠(なかびょう)

住所

千葉県我孫子市中峠

【由来】地名の由来は不詳だが、2つ説を紹介する。

1.柳田国男は「地名の当て字」(全集第25巻)の中で、「ヒョウ」は「標」の字の漢音であり、「境木」すなわち「榜示杭」を
意味するといっている。

傍示杭とは、境界のしるしに建てられた標柱のことで、街道施設に
限っての名称ではないが、街道筋においては、宿場境や距離の基準点を
示す重要な施設であったに違いないとされる。

杭は木製だったために現存は期待できず、浮世絵などによって
想像することしかできない。

描かれた人間や馬の大きさと比較しても、かなり丈の高い木杭であり、
そこには、境界を示す文言や里程などが墨書されていたようである。


2.当地の言葉で馬の背のような狭い地形のことを、
“峠(びょう)”と呼んだことが関係しているとされる。

我孫子市の難読地名・珍しい地名の由来 – 難読地名・珍しい地名の由来 – Yahoo!ブログ

東海道と宿場の施設【傍示杭】

珍名・難読地名の旅 – 22.中峠 – たかがカメラ、されど写真

安食卜杭(あじきぼっくい)

住所

千葉県印西市安食卜杭86

【由来】

「卜」はボク、ウラナウと読み、当時の豊凶を占ったり、
その地域の平和や豊作を祈る杭を建て「卜杭野」と呼ばれていたとされ、
これが地名に繋がったとされる。

さらにこの地域は印旛沼に面しており、悪霊、病魔、幸せが出入りする
村界ともいわれていた。

また、印西市木刈在住の河邉久男氏は

「その杭は単に占うだけでなく、天体の観測にも使われ、
暦の作成や占星術に用いられたのでは」

との示唆をされている。

古来そのような学問に習熟していたのは僧侶や神官で
あったろうとの説が付け加えられた。

なんて読む? 日本の珍地名「安食卜杭」 – ITmedia NEWS

http://www.chiba-newtown.jp/Fudoki/Fudoki03.htm

安食(あじき)

住所

千葉県印旛郡栄町安食

【由来】諸説あり。

1.平安時代後期。 水郷地帯の宿命ともいえる、度重なる水害によって
飢饉に見舞われたこの地の住民が、五穀豊穣を願って駒形神社を創建。

翌年は大豊作になり”食に安ずる”ようになったという伝承に由来する。

2.百済からの渡来人「阿自岐(あじき)」族に由来するという説。

3.応神天皇の時代に、「秦(はた)」「漢(あや)」の二大氏族が
渡来し、伴造(とものみやっこ)となった。

その中に阿自阜(あじき)人もいて、漢字を伝えたという。

それらの渡来人が住み着いたところに、安食、安楽の地名が
多く残ったとする説。

古代の諸氏族。朝廷の職業集団の長。
「造」は「かしら、トップ」を意味する。

安食の古い町並み

「安食」の地名の由来

ちなみに安食と安食卜杭は予想通り近い!

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酒々井(しすい)

住所

千葉県印旛郡酒々井町

【由来】

由来は「酒の井」伝説から来ている。

『昔むかし、印旛沼の近くの村に年老いた父親と孝行息子が住んでおった。

父親※1はたいそう酒好きでな、親思いの息子は毎日一生懸命働いて
父親に酒を買っていたんじゃ。

※1サイトによっては年老いた両親との紹介もあるが、酒好きな父親に
尽くす息子の話は共通している。


ところがある日、どうしても酒を買う金がつくれずに、
とぼとぼと歩いて家に帰ろうとしていた。

その時、道端の井戸から何とも良い香りが「ぷうん」としてきた。

井戸の水をくんでなめてみると、それは本物の酒だったんじゃ。

さっそく帰って父親に飲ませると、
「こりゃうまい酒だ。ありがたい、ありがたい」とたいそう喜んだ。

息子はそれから毎日、毎日井戸から酒をくんで飲ませたんじゃ。

ところがこの酒は、親子以外の人が飲むと、ただの水に
なってしまうんじゃな。

「きっと、孝行息子の真心が天に通じたに違いない」と
みんながほめたたえた。

この酒の話しが広まり、村もいつか「酒々井」と呼ばれるように
なったということじゃ。』

この「酒の井」伝説自体の由来は酒々井区の円福院神宮寺に伝わる
「孝子酒泉[こうししゅせん]」、「地名由来」、「伝承碑」伝説の
3つからなる珍しい伝説です。

「孝子酒泉」伝説は鎌倉時代に武士の子弟の教科書である『十訓抄
[じっきんしょう]』に書かれている養老の滝説話※2が広まったと
されています。

※2孝行息子が老父のために汲んだ湧水が酒に変わったという
「養老孝子伝説」と思われる。


酒の井伝説では「親子ともに酒」であり「酒」の部分が強調されています。

また自然の湧水ではなく集落の井戸となっています。

 鎌倉時代の後期に武士の子弟に学問を教えた僧侶を通じて「孝子酒泉」の
説話がこの地に流布されると、鎮守である麻賀多[まかた]神社の
御神酒を造っていた円福院神宮寺の井戸が酒泉とされ「酒の井」伝説が
成立したと思われる。

酒の井が地名の由来となったと伝わりますが、古くから地名は
縁起の良い漢字二文字を使う「好字[こうじ]二文字」で
名づけるのが習わしで三文字の地名はあまり例を見ません。

おそらく印旛沼に面したこの土地は涌水の井戸が多く、「しゅすい
(出水)」と呼ばれていて、文字には音(おん)が同じで豊かさを表す
「酒(しゅ)」をあて、豊かさが繰り返すよう酒の文字を重ねて
「酒酒井(酒々井)」と書いたのでしょう。

十五世紀には「須々井」と書かれたことがありますが十六世紀以後は
「酒々井」と書かれ、読みは「シュスイ・ススイ」となっています。

さらに室町時代のはじめに、この神宮寺に幾つかの板碑[いたび]
(板石塔婆)が有力者により造られましたが、いつしか板碑は
忘れ去られました。

江戸時代となり、寺は小さくなり井戸も埋まりましたが、傍らの板碑が
伝説を記念する「酒の井の碑」であると語られるようになりました。

そして江戸末期に国学者たちが古い書物に書かれた「盃の井」場所こそ
酒々井の「酒の井」であるとして紹介したことから広く知られる伝説に
なりました。

酒々井町 町名の由来 | 酒々井町ホームページ

酒々井風土記「1 酒々井のこと」

【酒々井町】酒の井戸!?名称由来にまつわる酒の井の碑へ 千葉ツーリング散歩

【水をめぐるストーリー】町名由来の「酒が湧く井戸」(酒々井町) – 産経ニュース

南波佐間(なばさま)

住所

千葉県四街道市南波佐間

【由来】諸説あり。

1.山梨郷の南の狭間の意味の説。

2.古河公方上杉氏の軍が当地に陣を構えた際に総大将であった
上杉朝定を南波様と呼んだことにちなむとする説。

3.「みなみ(方向)・はざま(狭間)」で
南の丘陵部の狭い谷のある地という意味の説。

四街道市

【採集】南波佐間・千葉県四街道市 | 地方史愛好家 ab.nan27

鹿放ヶ丘(ろっぽうがおか)

住所

千葉県四街道市鹿放ケ丘

【由来】

昭和22年6月、共同宿舎の建設にあたり、開拓予定地区の名称を
自治会で公募しました。

結局、その中にはなかった「鹿放ヶ丘」が採用されます。

これは、この地区が江戸時代以降「六方野」あるいは「六方原」と
称していたことと、六方野(原)から小金野にかけて、
鹿狩りが行われていたことにちなみ、鹿放(ろっぽう)ではどうかとの
案が出されました。

これには江戸時代に鹿を捕らえていたこの地が、今度は鹿たちを
放ってあげたいという願いも込められているそうです。

丘は中心地の大日権現岡(通称大日山)の“岡”から囲みのない“丘”が
採用されて、「鹿放ヶ丘(ろっぽうがおか)」と命名されました。

鹿放ヶ丘の歴史 | 四街道市鹿放ヶ丘 鹿放の風

「トーチカ」が遠近に 地名から見る四街道 【千葉地理学会連載 おもしろ半島 ちばの地理再発見】
 東関東自動車道千葉北インターチェンジ近く、国道16号線の千葉北警察署の交差点から東に少し走ると「遠近五差路」という信号に出ます。ちょうど千葉市から四街道市に入る地点ですが、さて何と読むのでしょう。

番外編

猿楽場(さかくば)

住所※現在は住所としては使われていない。

千葉県印旛郡酒々井町本佐倉に「猿楽場」のバス停がある。

【由来】諸説あり。

1.常勝山 妙胤寺の何代か前の住職が動物好きで、猿を飼っていたので
この名前がついた説。  

2.猿楽が行われた場所であり、猿楽の座が本佐倉において
興行を行ったとする説。

常勝山 妙胤寺 所 在 本佐倉字猿楽場557 宗 派 日蓮宗 中山法華経寺に属す 由 緒 寺伝によ

中世城郭と商工業者、遊芸人: 夜霧の古城

まとめ

千葉以外の関東地方の難読地名が気になった方はこちらもどうぞ。
日本の難読地名と由来~茨城編~
日本の難読地名と由来~栃木編~
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日本の難読地名と由来~埼玉編~
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