日本の難読地名と由来~東京編~

日本の難読地名と由来シリーズ

日本の難読地名と由来シリーズでは難読地名の由来について諸説も含め、説話として
残っているのを紹介しています。

目次の東京の難読地名では住所と由来が残っているのを、番外編では
現在地名として残ってないのを紹介しています。

また、今回の難読地名と由来は長いので、見出しで区切って紹介しています。

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難読地名と由来~東京編~(1)

銀座(ぎんざ)

住所

東京都中央区銀座

【由来】

江戸時代の「銀座役所」に由来する。

1603年に江戸幕府を開いた徳川家康は、1606年に駿府にあった

銀貨鋳造所あるいは銀座鋳造所(銀座役所)を1612年に
現在の銀座2丁目に移しました。

その場所の正式な町名は新両替町でしたが、通称として

「銀座」と呼ばれるようになりました。

その「銀座」ですが、銀を特権的に扱うため、相当な利益があり、「銀座」役人の羽振りは相当良かったようです。


しかしいくつもの不正事件をおこし、1800年(寛政12年)、「銀座」は
日本橋蠣殻町に移転させられてしまいます。

しかし、銀座という通称だけは残ったのです。

ヒストリー | GINZA OFFICIAL – 銀座公式ウェブサイト
銀座 – Wikipedia
銀座」の地名の由来 | 雑学ネタ帳

日本橋馬喰町(にほんばしばくろちょう)

住所

東京都中央区日本橋馬喰町

【由来】

牛馬を売買する「博労(ばくろう)」に由来する。

江戸時代、この地には馬場があり、これを幕府博労頭の

富田半七と高木源兵衛が管理していました

「博労」とは牛馬の売買を行う仲介業者のこと。


その後、高木家が名主となったことで、この町は「博労町」と
呼ばれるようになり、これがやがて「馬喰町」となったと言われています。

1657年(明暦3年)の明暦の大火の後、関東郡代

(郡代とは税の徴収などを管理する役職)の屋敷が建てられ、
ここを訪れる人々のための旅館街となりました。

その土産物の商いや、すでに問屋街であった隣町の横山町の影響で、

馬喰町は問屋街として発展しました。

「馬喰町」の地名の由来 | 雑学ネタ帳
【日本橋馬喰町】名前の由来と問屋街の歴史 | ENTAME LABO

八重洲(やえす)

住所

東京都中央区八重洲

【由来】

ここに住んでいたオランダ人ヤン・ヨーステンの
和名「耶楊子(やようす)」に由来する。

ヤン・ヨーステンはオランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長である

イギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに
1600年(慶長5年)4月19日、豊後に漂着します。

後に徳川家康の国際情勢顧問や通訳として活躍し、徳川家康から

江戸城の内堀内に邸を与えられ、日本人とも結婚しました。

この屋敷のあった場所が現在の八重洲のあたりで、冒頭で紹介した

ヤン・ヨーステンの和名「耶楊子(やようす)」と呼ばれるようになる。

これが後に「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)に
なったとされる。

ヤン・ヨーステンはやがて東南アジア方面での朱印船貿易を行い、

その後帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡りましたが帰国交渉が
はかどらず、結局あきらめて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた
船がインドシナで座礁して溺死しました。

八重洲 – Wikipedia
ヤン・ヨーステン – Wikipedia

京橋(きょうばし)

住所

東京都中央区京橋

【由来】諸説あり

1.京橋川に架けられた橋の名前に由来する。

橋の名前は、京都出身の者がこの橋付近で遊女屋を営んでいたことに

由来する。

京橋は江戸時代には木の橋で、1933年(昭和8年)には

洋式の石橋であった。

1959年(昭和34年)には京橋川が埋め立てられ、橋は撤去され、
現在は町名だけが残っています。

2.「京橋」という地名は、東海道の起点である日本橋から、

「京へ上る最初の橋」であったことから、その名が付いたとされています。

「京橋」の地名の由来 | 雑学ネタ帳
https://www.kyobashi.tokyo/sp/about/kyobashi/

麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)

住所

東京都港区麻布狸穴町

【由来】狸穴の由来に諸説あり。

1.この地に生息していた猯(まみ=アナグマ)にちなんで

『まみあな』という地名がついたのだが、後に狸の字と混同されてしまい、狸穴(まみあな)と書かれるようになったとする説が有力である。

長い坂下に雌狸の棲む大きな洞穴があったのが、地名の起こりとされる。

寛永21年(1644年)には、将軍・徳川家光が

この穴の視察を命じたという話も残っている。

2.魔魅(まみ)(人をたぶらかす魔物の類)が

住むような土地という意味の説。

3.間府(まぶ)(鉱石を取るために掘った横穴、坑道)の説。

麻布狸穴町 – Wikipedia
「狸穴町」の地名の由来 | 雑学ネタ帳
港区公式ホームページ/麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)

筑土八幡町(つくどはちまんちょう)

住所

東京都新宿区筑土八幡町

【由来】

町域内の筑土八幡神社を由来とする。

筑土八幡町 – Wikipedia
【ツクドハチマンチョウ】筑土八幡町の由来 – すむいえ情報館

改代町(かいたいちょう)

住所

東京都新宿区改代町

【由来】

代地をさらに改める意。
代地の立ち退きを命じられて二度目に与えられた代地のこと。

牛込村の白鳥沼の西端部。江戸築城で今の雉子橋付近に住んでいた住民が、牛込御徒町に代地を与えられたが、承応三年(1654)に改めて

沼地(現在地)を給され、そこに移るように命じられた。

しかし埋め立てる資力がなく村人の妻子がゴミを捨てて埋まるのを

気長に待って順々に町屋にしていったとされる。

そのため初めは「牛込築地替代町(うしごめつきじたいだいちょう)」と
いった。替代は「2度目の代地」の意だ。

明治5年牛込四軒寺町(田中寺・伝久寺・長寿寺・妙福寺)を併合して
牛込改代町と改め、平成元年一部を水道町に譲って今日に至ってる。

【カイタイチョウ】改代町の由来 – すむいえ情報館
改代町 – Wikipedia
改代町の歴史 | 東京都新宿区改代町

諏訪町(すわまち)

住所

東京都八王子市諏訪町

【由来】

江戸時代の旧小字「諏訪宿」にちなむ。

諏訪町 (八王子市) – Wikipedia

業平(なりひら)

住所 東京都墨田区業平

【由来】諸説あり。

由来となった業平天神社は現存しません。

この業平天神社はしばられ地蔵で知られる、業平山南蔵院の

境内にあった神社(鎮守社)のことです。

江戸時代初期に開かれたといわれ、その由緒は、平安時代の

歌人・在原業平(ありわらのなりひら)が亡くなった場所に建てられた
業平塚に由来する(『江戸名所記』)と言われていますが、業平塚に
ついては諸説あります。

1.上記の在原業平が亡くなった場所に建てられた説。

2.力士成川運平の墓が業平の墓に転じたという説(『遊歴雑記』)。

3.里見成平の墓という説(『本所雨やどり』)。

4.在原業平が東下りの際に、隅田川で舟遊びをした時に

船が転覆して多くの人が亡くなった。

業平はその人々を弔い、像を刻み村人に与え、法華経を写経して塚に納めたとする説(業平山南蔵院のHP)。

『江戸名所図会』には「当社の伝説粉々として詳らかならず。」と

記されている。

歴史研究者の石川悌二は


「業平天神の由来は定かではないが、業平塚と里人がよんでいた塚は
古くからこの地にあって、考古学の鳥居龍蔵博士はそれを上代の
舟形式古墳であると推定した。
要するに伝承が伝承を生んで業平天神の社祠が建立されたものであろう。」


と推測している。

おまけ】上記に出て来た業平山南蔵院に安置してある

「しばられ地蔵尊」について紹介したいと思います。

そもそもしばられ地蔵尊とは、盗難除け、足止め、厄除け、

縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな
地蔵尊として祀られています。

像高1メートルほどの石の地蔵尊で、元禄14年(西暦1701年)の

造立と伝えられている。

「文政寺社書上」によると、この地蔵尊は諸願成就、殊に

難病平癒に霊験があり、信心の者が祈願するときは地蔵尊を縄で縛り、
成就したときには縄を解くことから、しばられ地蔵と称したと
記されています。

毎年12月31日(大晦日)の夜、しばられ地蔵尊の縄解き供養が行われます。

また、大晦日と元日には厄除けから縁結びまで、あらゆる願い事を

結ぶ開運の縁起・「結びだるま市」が開かれます。

しばられ地蔵尊の由来は 江戸時代の享保年間、八代将軍徳川吉宗の治世。


日本橋にある呉服問屋の手代が南蔵院の境内で
うっかり一眠りしている間に反物を荷車ごと盗まれてしまいました。

調べに当たった名奉行、南町奉行大岡越前守忠相は、


「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは、地蔵も
同罪なり、直ちに縄打って召し捕って参れ」

と命じました。

かくして地蔵はぐるぐるに縛られ、車に乗せられ

江戸市中を引き廻され南町奉行所へ。

物見高い野次馬が、どんなお裁きが始まるかと奉行所になだれ込みました。

頃を見計らった越前守は門を閉めさせ


「天下のお白州に乱入するとは不届至極、その罰として
反物一反の科料申附ける」

の一声、奉行所にはその日の内に反物の山が出来ました。

手代に調べさせるとその中から盗品が出て、それからそれへと

調べると当時江戸市中を荒した大盗賊団が一網打尽となったのです。

越前守は地蔵尊の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し

盛大な縄解き供養を行いました。

以来、お願いするときは縛り、願い叶えば縄解きするという

風習が生まれ、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、
あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として
祀られています。

縄解き供養は12月31日午後11時から南蔵院住職による

「願かけしばられ地蔵尊」の縄解き供養が行われ、解かれた縄は
祈祷護摩の火でお焚き上げされます。

 もうじき年も明けようという頃、住職が除夜の一番鐘を撞き、

年が改まったところで地蔵尊に新年の一番縄が結ばれます。

参詣の人々は、一年に一度縄を解かれた地蔵尊のお姿を拝み、

除夜の鐘を撞き、そして新たに地蔵尊に願かけの縄を結び、
新年の願いを託すのです。

ご供養の間、住職、衆僧により聲明が唱えられ、境内に新設された

舞台では「伶楽舎」による雅楽の演奏が行われ、荘厳な音の世界に
浸りながら、新年を迎える儀式が執り行われます。

業平 – Wikipedia
「業平」の地名の由来 | 雑学ネタ帳
しばられ地蔵|天台宗 業平山 南蔵院|公式ホームページ|東京都葛飾区にある在原業平氏ゆかりの寺院です

亀戸(かめいど)

住所 

東京都江東区亀戸

【由来】諸説あり。

1.元々は亀井戸と書いたことに由来するものである。

元々の地名は「亀島」(または亀ヶ島、亀津島)で、その名の通り
亀の形に似た島であったことによる。

後に島の周辺に土砂が堆積して周りの島々と陸続きになり、亀島は

亀村と呼ばれるようになった。

これが、現在の亀戸三丁目附近にあった臥龍梅庭の井戸「亀ヶ井」と
混同されて「亀井戸」と呼ばれるようになり、さらに「井」が取れて
亀戸となった(亀津島の津(「つ」は古語で「の」の意)が「と」に
変化したものとする説もある)。

2.「かみど(神戸)」であったという説。

【おまけ】


由来に出て来た臥龍梅とは江戸時代、江戸の東はずれに

亀戸天神があり、ここから東は民家がきれ、田畑ばかりが広がっていた。

亀戸天神から北東400メートル足らずの場所に臥龍梅があった。


農家の梅であるが、享保九年に吉宗が隅田川辺への
鷹狩の途次たち寄って、世に知られた。

創始の伊勢屋彦右衛門という人は本所に住む商人であったが、

風雅を好んで別荘をつくって、梅をたのしんでいた。

梅は成長して奇木となって、龍が地面に臥すような形で
四方に枝をのばした。

地についた枝から根を生じ、そこから新しく枝を出すというように、
まわりに広がっていった。

伊勢屋の子孫はここに住んで農業を営み、臥龍梅を育てつづけた。

吉宗がきて以来、臥龍梅は御用木となっていたのである。

寛政四年(1792年)ごろには、もとの臥龍梅は枯死したが、
枝から次々と根を出すので、二代、三代と臥龍梅がついていた。

臥龍梅は、一本から分かれた梅だけであったものを、遊客が
ふえるにつれて、梅を数百本にふやし、茶屋をつくって
客をもてなすようになった。臥龍梅が梅屋敷へと発展したものである。

亀戸 – Wikipedia
江東区の地名由来|江東区

難読地名と由来~東京編~(2)

東雲(しののめ)

住所 

東京都江東区東雲

【由来】

古い言葉で「闇から光へ移行する、夜明け前の茜空」を

意味する東雲が地名として採用されました。

この東雲(しののめ)とは篠の目(しののめ)が語源になっています。


「篠の目」とは昔は、細目の竹である篠竹(しのだけ)の笹や竹を

編んで明り取り用の窓や、間接照明用の被せ、仕切りに使っていました。

そして、朝日が昇る時に、明り取り用の窓の網目(篠の目)からさす

光の紅く美しい様が、東の空にかかった雲が日の出とともに
紅く染まる美しさと重なり、東の雲 = 篠の目(しののめ)と
なったそうです。
https://www.facebook.com/tokyosaihakkenproject/posts/549141245137564/
https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/joho/6379.html
https://jp.quora.com/東京有明エリアの東雲の由来はなんですか 篠の目の参考画像あり


碑文谷(ひもんや)

住所 

東京都目黒区碑文谷

【由来】諸説あり。
ただ、応永32年(1425年)の「日運記」の中に
碑文谷ひもんやという地名が著されている。

1.八幡宮境内に保存されている「碑文谷石」が起源という説。

2.鎌倉・室町時代のころから桧物・檜物

(ひものヒノキを使った曲げ物)作りが盛んだった説。

3.「世田谷城名残常磐記(せたがやじょうなごりのときわぎ)」に

ある「秘文(ひもん)の谷」「秘文(ひもん)の谷」が語源説。

4.忠玄法師(日源上人)忠玄法師(日源上人)が卒塔婆に

碑文を書いて、この地に埋めたために起こった説。

5.「碑文谷」「ひものや」「桧物屋ひものや」の意味するところは全く同じで、
その中から一番使用される数が多かった「碑文谷」が地名として残った説。

上記の中で一番有力なのが、由来1の「碑文谷石」が由来という説です。


この「碑文谷石」は、現在でも碑文谷八幡宮の境内にある

稲荷社に祀られています。

これは高さ約75cm、横約45cmの石に、梵字が彫られているもので、

当時の人々の信仰を知る上での貴重な資料となっています。

梵字(ぼんじ)とは、紀元前にインドに発達したサンスクリット語を

表記するために用いられた字体。

密教においては仏の活動を表わすと考えられていて、一字一字が

意味をもっています。

碑文石(ひもんせき) 説明板から
『この碑文石は、碑文谷の地名の起こりとなったともいわれ、

当碑文谷八幡宮では信仰の遺物として、また歴史資料として、
大切に保存に努めてまいりました。

碑文を彫った石のある里(谷)という意味から碑文谷の

地名が起こりました。

碑文石の近くの呑川の川床に露出いていた上総(三浦)層群の砂岩で、

普通、沢丸石〔サワマルイシ〕とよばれる石を材料としています。

この碑の上方には、中央に大日如来(バン)、左に熱至菩薩(サク)、
右に観音菩薩(サ)の梵字が刻まれており、大日を主尊とした
三尊種子の板碑の一種とみられます。

高さ七五センチヽ横(中央)四五センチ、厚さ一〇センチ、上部が隅丸、

下部が下脹れのやや角張った形をししております。

碑大石は、昔、碑文谷八幡宮の西方を通っていた鎌倉街道沿いの

土中に理埋まっていたものと伝えられ、大日と異系のニ種子を
会わせて表わしているので、恐らく、室町時代のものとみられます。

江戸時代の名著「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」などに

碑文石のことが書かれています。

この碑文石には造立の趣旨や紀年は彫られていませんが、中世の
人びとの信仰状況を知る上に貴重なものです。
昭和五十八年四月   碑文谷八幡宮』

また、土中に埋められていた理由にたたりのため土中に埋めたと

「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」「帝国地名辞典」に
記されていることなどからいわれるようになりました。

ただ、昭和7年発行の「碑衾町誌」によると、碑文石起源説は、

単に古伝説を根拠としただけで、碑文谷の地名ができたのは、
もっと時代をさかのぼると書かれています。

また、由来4の卒塔婆についてはこれら三文献と

貞享4年(1687年)の「江戸惣鹿子」には、忠玄法師
(江戸名所図会では日源上人とある)が卒塔婆に碑文を書いて、
この地に埋めたために起こった名だとも記されている。

由来5の「碑文谷」が一番使用される回数が多く残った説は

円融寺えんゆうじにまつわるもので、天台宗の寺として仁寿3年(853年)に
開基されたといわれ、弘安6年(1283年)には由来4で出てきた
忠玄法師(日源上人)によって日蓮宗妙光山吉祥院法華寺に改められた。

その後、天台宗に復し、現在の円融寺となりました。

円融寺えんゆうじには、天正13年(1585年)、法界塚付近の土地が同寺へ

寄進されたときの書状があるが、その1行目では碑文谷法華(花)寺と
記しながら、終わりの方では、武蔵国ひものや郷中と書いてある。

また「江戸図屏風」には、桧物屋法華寺と桧物屋御鞭打
(袋竹刀を振って打ち合う騎馬戦)が描かれている。

天正19年(1591年)の「寺領寄進状」のように、
武蔵国荏原郡桧物屋之内と記されている例もある。

しかしながら、「ひものや」「桧物屋ひものや」と書かれた文書は

数が非常に少く、今までに残っている古文書の中では「碑文谷」という
文字が一番多く使われている。

これは、人々が「ひものや」あるいは「ひもんや」と発していた言葉を
表記する際、「碑文谷」「ひものや」「桧物屋ひものや」という文字が
あてられたと考えることができる。

従ってこの3つの文字が意味するところは全く同じものを指し、
その中から一番使用される数が多かった「碑文谷」が
地名として残ったのではとされる。

由来2の桧物・檜物説は檜物(ひもの)という語は、古く用明天皇時代

(585年ころ)の職人名にもあったと伝えられる。

檜物とは、神社の柄杓(ひしゃく)、三宝や佃煮の容器などで、
鎌倉時代になると各地に檜物屋が繁盛し、江戸時代には、今の八重洲や
麻布にもあったという。

碑文谷の地は、鎌倉街道沿いで古くから開けており、鎌倉・室町時代の
ころから檜物を業とする職人がいて、それが地名になったという説である。

江戸図屏風に、「ひものや法花寺(今の円融寺)」とあり、法花寺文書にも、「武蔵国ひものや郷中」と記されているのが根拠とされる。

由来3の「秘文の谷」説は碑小学校(いしぶみしょうがっこう)

八十五年史によると、鈴木堅次郎氏の「世田谷城名残常盤記」に、
秘文の谷(ひもんのや)が語源で、その中の「ん」が消音されて、
「ひものや」となり、それに碑文谷の漢字が当てられたとあるそうです。
https://www.jk-tokyo.tv/zatsugaku/249/ 碑文石の参考画像あり
https://ja.wikipedia.org/wiki/碑文谷
https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/nanbu/himonya.html
https://www.city.meguro.tokyo.jp/smph/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/chimei/nanbu/himonya.html


粕谷(かすや)

住所 

東京都世田谷区粕谷

【由来】諸説あり
 1.洪水などで上流から土砂が流れてきて、埋まった堆積地のこと。

 2.旧粕谷村。鎌倉時代に糟谷三郎兼時という土豪が住んでいたことに

由来する。当初は糟谷村だったが、江戸時代に粕谷村となった。
https://folklore2017.com/timei100/071.htm


砧(きぬた)

住所 

東京都世田谷区砧

【由来】諸説あり

1.古く7、8世紀のころ、朝廷に納める布を衣板(きぬいた)で

たたいて柔らかくし、つやを出すために使った道具から生まれたと
いわれています。

女の人の夜なべ仕事として砧の音が響いたことや、その布を染め、
多摩川の清流にさらして洗ったことなどは詩情にもうたわれてきました。

また、サイトによっては朝廷に布を納めたのは多摩川流域に住みついた

朝鮮半島からの渡来人が、税として大和朝延に納めたと紹介されています。

2.けぬ(毛野)・と(所)の転で、荒れ地とする説。

https://www.city.setagaya.lg.jp/theme/kanko/002/003/004/d00120613.html
https://www.setagaya-old.com/seijou-area_kinuta1.html
https://baba72885.exblog.jp/23353445/

等々力(とどろき)

住所 

東京都世田谷区等々力

【由来】諸説あり
1.等々力渓谷に流れ落ちる「不動の滝」の轟く音に由来するという説。

2.等々力渓谷ができるまでに、繰り返し滝や崖が崩落したため、

その崩落の轟く音から来たという説。
(世田谷区の由来ではこちらが紹介されている。)

3.現在の都立園芸高校の地にあった「兎々呂城」

(「とどろじょう」の読みが「とどろき」と変化)を由来とする説。

https://ja.wikipedia.org/wiki/等々力_(世田谷区)
等々力 – なるほど! 東京 地名の由来
地名の由来(等々力・玉堤・尾山台)

雑司が谷(ぞうしがや)

住所 

東京都豊島区雑司が谷

【由来】諸説あり。
(古い文献には、「曹司谷」「雑士ヶ谷」などとも
書かれています。)


1.後醍醐天皇の雑色(ぞうしき)職を努めた人たちが
このあたりに移り住んだ説。
雑色職:朝廷の雑務係

2.元弘・建武(南北朝時代)の頃、京都の朝廷で雑式の職をつとめた

柳式若狭、長島内匠、戸張次左衛門など、南朝の衰えを嘆いて官を辞し、
この地に土着し、その子孫も村民として残りました。

曹司とは郡領などの身分ある人の子息をさして言うので、
この地名が起きたと江戸名所記に書かれています。

雑司が谷が地名に定められたのは、八代将軍吉宗が放鷹のため

この地に来た時「雑司が谷村と書くべし」といわれてからと
伝えられています。

「谷」とは、この地に池袋の丸池を水源とした弦巻川が流れ、川に沿った
谷間を形成していたと考えられ、この弦巻川は、雑司が谷八景の一つに
うたわれた風光を誇り、夏は蛍、秋は月の聖なる川として流域の人々の
生活を支えた。

弦巻川も時代の波に押し流され、昭和4年に暗渠化され、今は
形跡もありません。

3.法明寺(あるいは小日向金剛寺)の雑司料の地だったことに

由来する説。

4.室町時代に宮中の雑士がここに土着したことに由来するという説。

5.元弘・建武のころに、南朝の衰退を嘆いた雑式職の柳下若狭守などが
官を辞して武蔵国に転じてこの地に住んだ説。

6.鬼子母神堂に祀られている鬼子母神像を最初に土の中から掘り出した
山村丹右衛門と言う人が「雑司の役にあった柳下若狭守の家臣」だった
ことから来ている説。

7.郡領の子(つまり御曹司)らが始めた土地から来ている説

わが町再発見
「雑司ヶ谷」の地名の由来
170豊島区 雑司が谷
雑司が谷散策
雑司が谷について

日暮里(にっぽり)

住所

東京都荒川区西日暮里
東京都荒川区東日暮里

【由来】

かつて「新堀にいほり村」という地名であった。

これは太田道灌の家臣の新堀玄蕃がこの地に住んでいたことに
由来する説がある。

ただし、史料上では既に1448年(文安5年)の
熊野神領豊嶋年貢目録に「につぽり妙円」との記載がある。

「日暮里」になったのは江戸時代からで、桜やツツジが美しく
「一日中過ごしても飽きない里」という意味で「日暮らしの里」と
呼ばれたことに由来する。


https://zatsuneta.com/archives/000335.html
https://ameblo.jp/mitown56/entry-10031619454.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9A%AE%E9%87%8C%E7%94%BA

小豆沢(あずさわ)

住所

東京都板橋区小豆沢

【由来】諸説あり

1.小豆(あずき)を積んでいた船が沈んで、その小豆が
川の水面に浮かび、小豆の澤のように見えたことから
小豆澤(後に小豆沢)と呼ばれるようになったという説が有力である。

「小豆澤村は往昔、荒川の入り江に傍って七々子崎と唱へし、
わずかの湊なり、平将門東国を押領せし頃、貢物の小豆を
積来り船この江に沈しかば、此の名は起これり」
(『新編武蔵風土記稿』)。

源義家が勧請した十二天社はこの地名を採り、小豆澤神社となった。

2.飢饉の年にアズキの束がこの沢に流れ着き、村人らは
喜んでこの沢の村名としたとする説。

3.十二天社の祭礼は毎年6月15日で、村人らは赤飯をつくって
通行人にも与えた。

この赤飯を食べると妊婦は安産するといわれ盛大になったという説。

4.この地に七々子(ななこ)崎という7つの岬と12の入江があり、
洪水で米が流れ着いた。

村人らは腐るのを恐れてアズキを入れて赤飯にして食べてしまった。

これを聞いて上流の米の所有者が訴訟に及んだ。

ところが裁決は小豆沢の村人に有利となったので、村人らはそれを
感謝して鎮守の十二天社に、その赤飯を奉納、
通行人にもこれを与えたことから小豆沢と云われるようになった説。

5.「アズ」とは崩れた崖のことで小豆沢の地形は
まさに崩崖と一致するとする説。

6.アズサ(梓)の木が繁茂する「アズサザワ」がつまって
「アズサワ」となったとする説。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E6%B2%A2
https://www.ohkuraya.co.jp/Blog/detail/id/583
https://folklore2017.com/timei800/0002.htm

石神井(しゃくじい)

住所

東京都練馬区上石神井

【由来】

「石神」(しゃくじ、いしがみ)に由来すると
伝えられている。

むかし村人が井戸を掘った折、石棒が出てきた。

その石棒には奇端(きずい=めでたいことの前兆)があり、
村人達はそれを霊石、石神様として祭った。

これが通称「石神神社」、今の石神井神社の始まりだという。

いつしか、村の名もそれにちなんで石神井となった。

一説には、石神様は三宝寺池(今の石神井公園の一部)から出現
した石剣ともいう。

石神井の地名は古く、鎌倉時代の弘安5年(1282年)に
宇多重広(うだしげひろ)という武将が、娘に石神井の
所領を譲った書付けがある。

現在この石剣は、石神井神社に神体として祭られている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E4%BA%95
https://zatsuneta.com/archives/000328.html
https://tokyopowerspot.com/blog/%E5%8E%84%E9%99%A4%E3%81%91/6216

貫井(ぬくい)

住所

東京都練馬区貫井

【由来】諸説あり

1.むかし弘法大師がこの地をおとずれ、水不足に苦しむ村民の姿をみて、
持っていた杖で大地を突いたところ、泉が湧き出した。
これが地名の由来だという。

湧き水でできた池が貫井中学校グランド辺にあった。

南池山貫井寺円光院(貫井5-7)の号もこの伝説によるという。

2.湧水が夏は冷たく冬は「温い」からであるとする説。

この貫井=温井説の発端は、大正 10 年 11 月 28日、
前田武四郎がとあるイギリス人を自分の所有地の杉林にあった
「おおせど」の湧水に案内したときに始まります。

イギリス人は湧水に手を浸して普通の湧水とは違い温かいと言い出し、
温度計で水温を計ることを熱心に主張します。

12 月4日には、今度はイギリス人の方から前田武四郎を誘って、
おおせど・貫井神社・新次郎池を回って水温を計り、いずれも
摂氏 15 ~ 16 度との結果を得ています。

これら湧水の水温の比較対象として、付近の玉川上水の分水2箇所の
水温も測ったところ摂氏 9度と 9.5 度でした。

開渠で常に日光に晒されている分水に比べて、湧水は「温い」と
二人は結論付けたわけです。

さらに後日、竹越与三郎(1865 ~ 1950)の訪問によって、
前田武四郎は貫井=温井説を確信するに至ります。

竹越与三郎は民友社出身の歴史学者・著述家で、国木田独歩の
先輩に当たる人物ですが、貫井についてある書物を読んだところ、
「温井」と書かれていたと前田武四郎に教えています。

書物のタイトルは書かれていませんが、この一言が
前田武四郎にとっては決定打になったようです。

貫井
練馬の地名 今むかし(貫井)
小金井と貫井 地名の由来と湧水

難読地名と由来~東京編~(3)

舎人(とねり)

住所

東京都足立区舎人

【由来】諸説あり

1.戦国武将・舎人氏 由来説

戦国時代に舎人氏が住んでいたことから地名になった説です。

舎人氏は「舎人城」に居を構えていたと古文書に記されていますが、
発掘調査も行われていないため、城の存在はいまだ謎に包まれています。

しかし、舎人二丁目周辺にはかつて堀があり、「内出」「御殿」など
城館の構造物を思わせる地名があったとも伝えられています。

2.舎人(古代宮廷に仕え警備や雑用などを行う下級役人)が
住んでいたという説。

3.聖徳太子 命名説

入谷にある源証寺所蔵の「太子堂縁起」に記される、
舎人村の村名由来に基づく説。

聖徳太子が身分を隠して関東を巡行していたとき、ただ一人、
その正体を見破った舎人にちなんで命名したという伝承です。

4.地形 由来説

小石の多い痩せ地を表す「トネ」(石根)と、入谷や谷の奥を表す
「イリ」をあわせた「トネイリ」に由来するという説。

5.舎人親王(天武天皇の皇子)に由来するという説。

6.アイヌ語の「石の転がる平地」を意味するトネ・イリに由来する説。

https://www.city.adachi.tokyo.jp/miryoku/shiru/adachishiki-08.html
https://zatsuneta.com/archives/000580.html


葛飾(かつしか)

住所

東京都葛飾区

【由来】諸説あり

1.葛飾の「かつ」は、カテ、カトと同義で
「崖」または「丘陵」を指し、「しか」はスカと同義で
「砂州」であるとし、利根川(江戸川)の右岸低地と
左岸台地を表した説。

2.南洋系の民族によって付けられた名前で
”狩場の方”を意味する説。

3.葛飾は葦葭の生い茂る原で、葛(くず・かずら)の
繁茂していたことにちなむ「葛繁」が語源の説。

4.「かとしき(門敷)」の転化で、古利根川下流の
入江の門戸の低湿地を整備して、集落が立地した
ことによるとする説。

5.「方洲処(かたすか)」で、一方が砂地の所とする説。

https://chimei.kkf.co.jp/archives/103
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%A3%BE
http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/2-4-1-142.htm


鹿骨(ししぼね)

住所

東京都江戸川区鹿骨

【由来】諸説あり

1.奈良時代(8世紀)、藤原氏によって奈良の春日大社の創建に際し、
常陸の鹿島神宮から分霊されたが、その際に多くの神鹿を引き連れて
およそ1年かけて奈良まで行ったと言い伝えられています。

その途中、鹿が死んだためこの地に葬った。
これが「鹿骨」の地名の由来とされます。
こちらが有力

2.「しかほね」の「しか」は「すか」の転とも考えられる。
「ほね」は「はな」の転かもしれない。

そうすれば「鹿骨」は「スカの先端部」を指し、「州崎・須崎」と
同じかもしれないが、たしかな根拠はない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E9%AA%A8
https://wag-3.hatenablog.com/entry/20160416/1460813519
https://folklore2017.com/timei100/057.htm
https://www.city.edogawa.tokyo.jp/documents/9203/8-01.pdf


興宮町(おきのみやちょう)

住所

東京都江戸川区興宮町

【由来】

興宮神社に由来した旧来の「興宮村」に由来。

神社が海に面しており、「沖の宮」と呼ばれたことが由来とされる。

「興之宮」「興野宮」とも表記し、更に「興」の代わりに
「奥」が混同して使用されることもあった。

http://www.carefree24.co.jp/14-mame-tisiki.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%AE%AE%E7%94%BA
https://www.lotus-asset-and-property.com/single_house/259

上柚木(かみゆぎ)
下柚木(しもゆぎ)


住所

東京都八王子市上柚木1797
東京都八王子市下柚木1898

【由来】

江戸時代初期の村名、柚木村に由来する。
のちに上・下の2村にわかれ、上柚木・下柚木の由来になる。

由儀・柚木とも書き、平安末~鎌倉初期には横山党の一族
由木氏が住んだといい、南北朝期には多摩郡船木田荘のうち
由木郷の名も見える。

上記に関係する由木地区の由来からも紹介します。

由木という地名は、古くは「柚木」とも書き、 12 世紀ごろに
八王子市域に成立した船木田荘に 「由木郷」という地名も見られます。

平安時代の 末ごろから鎌倉時代の初期にかけて日奉党
(ひまつりとう)の一族 由木氏が住んでいたと伝わっています。

http://www.shiro1000.jp/tau-history/yarimizu/yarimizu.html
https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/001/p025419_d/fil/13_hachiojirekibun_c3.pdf

椚田町(くぬぎだまち)

住所

東京都八王子市椚田町

【由来】

江戸時代まで、下椚田村に加え現高尾町、初沢町、
東浅川町辺を上椚田村といった。

横山党の横山権守時重の四男、大郎重兼がこの椚田の地に
居を構えたとされ、その子次郎広重より代々椚田氏を名乗って
この地に住んだので、このあたりを横山庄椚田郷と
呼ぶようになったとされる。

この椚田氏が初沢城(椚田城)の初代城主ではないかという説がある。
(新編武蔵国風土記稿)

椚田郷(くぬぎだごう)

戦国時代に武蔵国多摩郡横山荘にみられた郷名で、橦田とも書く。

当郷の古刹曹洞宗高乗寺前方の山は椚田城址で、一説には当郷の
開発領主横山党椚田氏の居館跡といわれるが、徴証はない。

室町期以降、当郷は高乗寺開基の大江姓長井氏の
領するところとなり、戦国期には小田原北条氏の治下に入る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9A%E7%94%B0%E7%94%BA
https://folklore2017.com/timei900/499.htm


廿里町(とどりまち)

住所

東京都八王子市廿里町

【由来】諸説あり、ただ、下記の説しか見つからず。

京都からの距離が百里(約四百キロメートル)なので、
中国式に「十十里」と書き、「廿里」になった、とする説が
有力とされている。

豆知識:廿は音読みだとジュウ、訓読みだとにじゅうと読みます。

https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/6009/2
https://mojinavi.com/d/u5eff

鑓水(やりみず)

住所

東京都八王子市鑓水1321

【由来】

江戸期の地方文書には遣水とも見える。

昔、地下水を筧(かけい)で家に引いたところが多く、鑓水の
地名が起こったと伝承する。

鑓水は大栗川の源流部にあたり湧水が大変豊富であった。

そのため、多摩丘陵の斜面に槍のように尖らせた
竹筒を打ち込んで飲料水を得ていた。

この方法を「ヤリミズ」と言い、地名の由来になったと言われる

https://folklore2017.com/848.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%93%E6%B0%B4

牟礼(むれ)

住所

東京都三鷹市牟礼

【由来】諸説あり

1.集落を表す「群れ」が転化して「牟礼」となった説。

2.古代朝鮮語で山や丘を意味するmori、moreが
日本語に転じて「むれ」となった説。

3.盛り上がった場所を「モリ」と表現し、
そこに漢字が当てはめられた説。

4.無連・無礼とも書く。

地名の由来は、山峰を古言で牟礼というところから
地内の小丘神明山に起こるとも、人の群れる地の意ともいう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%A4%BC
http://fuum.me/archives/55
https://folklore2017.com/timei/094.htm


青梅(おうめ)

住所

東京都青梅市東青梅

【由来】

市内天瀬町にある古刹「青梅山金剛寺」の境内には、
平将門にゆかりの名樹「青梅(あおうめ)」があります。

伝説によれば、承平年間(931から938)の頃、平将門が
この地に来て、一枝の梅を地に挿し、

「わが願いがかなうならば栄えよ、そうでないなら枯れてしまえ。」

と誓ったところ、梅は大いに枝葉を延ばして繁茂しました。

将門はその梅の木が育ったことを喜び、お寺を建立しました。
これが現在の金剛寺です。

この木は、その後成長して梅の実を結ぶようになりましたが、
秋になっても熟することなく、青々としたまま枝に残っていることから
土地の人々がこれを不思議に思って、いつしか地名を
「青梅(おうめ)」と呼ぶようになったということです。

https://www.city.ome.tokyo.jp/soshiki/2/252.html
https://www.city.ome.tokyo.jp/site/ome-style/15844.html
https://www.daikyo-home.co.jp/matsuri_matome/ome_rekishi.html

難読地名と由来~東京編~(4)


回田町(めぐりたちょう)

住所

東京都小平市回田町273

【由来】

地名の由来は、新田(当時は畑)の開発の段階で、廻り田村
(東村山)に売り渡されたことに由来する。

享保 9年(1724)小平の「野中新田」という新田開発として
町人請負型かつ、広大な開発面積で開発が進められたが、
許可された面積513町歩を12人で分けたが開発仲間の中には、
開発せずに廻り田村(東村山)などに売り渡し帰村している。

享保11年(1726)野中新田の採草地を東村山廻り田村から
土地を購入し、廻り田(回田)新田が成立。

明治22年(1889)小川新田・鈴木新田・回田新田・
野中新田与右衛門組・野中新田善左衛門組・大沼田新田・
小川村と久米川の飛び地が合わさり小平村となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E7%94%B0%E7%94%BA
https://atuiomoi.net/10enkaitori/3020/amp/


廻田町(めぐりたちょう)

住所

東京都東村山市廻田町

【由来】

道興准后の記した「廻国雑記」によると、廻田に古くから
暮らしていた人々は、その居を狭山丘陵の山あいに 定め、
丘陵をとりかこむような形で開拓していきました。

そのため、隣村と行き来するためには、田から田を
廻っていたそうです。

そうしたことから、「廻っ田の先の村」 という言葉が生まれ、
回田ともかかれたこの地域でしたが、 現在は
「廻田町」となっています。

https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/smph/shisei/shokai/town/megurita.html


百草(もぐさ)

住所

東京都日野市百草
東京都多摩市百草

【由来】

多摩市の百草は日野市の百草の飛び地。日野市の百草は
かつては「茂草」と書いた。「もぐさ」は「よもぎ」のこと。

https://folklore2017.com/timei100/058.htm

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番外編(1)

諏訪町(すわちょう)

住所

※東京都新宿区に存在した町名。
およそ現在の高田馬場一丁目大部分と西早稲田二丁目西半分に相当する。

【由来】

諏訪神社に由来している。

諏訪神社は弘仁年間(810 – 824年)の創建と伝えられ、小野篁により
大国主命・事代主命を祀ったのがはじまりとされる。

当初は松原神社と命名されたが、徳川義直により諏訪神社と改名された。

諏訪町 (新宿区) – Wikipedia

神田旅籠町(かんだはたごちょう)

住所

※現在の外神田一丁目1番(昌平橋束橋詰広場) 付近と思われる。

【由来】

この周辺は、かつて神田旅籠町と呼ばれていました。

昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である

板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、
旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるように
なったと伝えられています。

江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の

整備にとくに力を入れていました。

また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、
現在の国道122号にほぼ相当します。

こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。

しかし、天和二年(1682年)に江戸で大火事が起こります。

浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火です。

もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の
加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。

そして元禄七年(1694年)には、浅草御門の普請のため、

馬喰町・柳原(やないはら)周辺の町が代地を与えられ移転しています。

これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。

さらに、明治二年(1869年)には、昌平橋と筋違橋(すじかいばし)の
北側にあった幕府講武所付町屋敷(ばくふこうぶしょづきまちやしき)が
神田旅籠町三丁目と改称されました。

さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど

姿を消しています。

「諸問屋名前帳(しょどんやなまえちょう)」によれば、嘉永
(1848年~1854年)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。

頭の「神田」については神田川から来ていると思われます。


東京の地名には外神田・内神田とありますが、これは江戸府内より見て
神田川(外堀)の外側を「外神田」(内側は「内神田」)と
称したことによります。

千代田区ホームページ – 町名由来板:神田旅籠町(かんだはたごちょう)
外神田 – Wikipedia
内神田 – Wikipedia

木挽町(こびきちょう)

住所

※東京都中央区南部の旧町名。現在の歌舞伎座周辺,銀座と築地の間にあたる。

【由来】

江戸時代初期,江戸城大修築に従事する木挽の多くが住んだことによる。

木挽町(こびきちょう)とは – コトバンク

檜物町(ひものちょう)

住所

※現在の東京都中央区に存在した町名

【由来】

檜物町(八重洲一丁目・日本橋三丁目)は家康の江戸入府の際に
浜松の檜物大工棟梁がこの地を拝領したことによる。

さて、そもそも「檜物」についてですが、「檜物」とは、

檜(ひのき)や松などから薄く削り取ったものを曲げて作る「曲げ物」の
ことで、当時は食器や勝手用品としてかかせないものでした。

この町には藩の番屋が置かれ、また江戸時代城下にあった

職人町の一つでしたが、商人の家が増え続け、明治には
個人商店の多い町になっていました。

「旧町名」から読み解く、江戸城下町の特性|東京クロニクル | 東京街人
http://www.npogunma.net/shouto-takasaki/district/2_walk/1_chimei_05na_ma.html

薬研堀(やげんぼり)

住所

※現在の東京都中央区東日本橋にかつて存在した運河であり、堀周辺の通称地名。

【由来】

この辺りの堀の形が「薬研」という、薬を潰す道具に似ていたので
そう呼ばれるようになったと言われています。

事実、この地域には医者や薬問屋が多く、別名「医者町」で

通っていたと言われています。

また、七味唐辛子の発祥地としても有名です。

店名の由来|やげん堀とは|やげん堀 七味唐辛子本舗
薬研堀 (東京都) – Wikipedia

十二社(じゅうにそう)

住所

※地名としては消滅しバス停などに残る。

【由来】

熊野神社の十二所権現とされる。

【新宿区】十二社 – 旧町名をさがす会
花街の痕跡・西新宿「角筈十二社」 (1) 熊野神社 – 東京DEEP案内

角筈(つのはず)

住所

※東京都新宿区にかつてあった地名。

現在は、新宿区西新宿、歌舞伎町および新宿の一部。

【由来】諸説あり。

1.新宿区教育委員会では、以下の説を有力としている。


角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、角にも

矢筈(やはず)にも見えたことから、人々が与兵衛を角髪または
矢筈と呼び、これが転じて角筈となった説。

2.(渡辺与兵衛が?)真言宗の信者で、正式な僧にはならずに

自宅で修行する、忌み言葉で「優婆塞(うばそく)」だった。

この「優婆塞」を「角筈」といった。

角筈 – Wikipedia
「角筈」の地名の由来

 駕籠町(かごまち)

住所

※地名としては消失し、現在は駕籠町小・駕籠町公園などにその名が残っている

【由来】

元禄10年(1697)江戸幕府は、『御駕籠の者』51人に、
この地を与え居住させた。

御駕籠の者とは、将軍専用の駕籠をかつぐ人で、長身の者が選ばれた。


昔、この辺りは巣鴨村に属していたので、町の名を御駕籠と合わせて、

巣鴨御駕籠町とした。

古老の伝えによれば、将軍ご用達のときは、小刀の着帯が許され、

秘密保持などの厳格な規定があったと言う。

町名は『御』の字がつくのは、将軍との関わりを示す。


明治2年(1869)『御』の字は削除され、小石川駕籠町となった。
さらに、昭和39(1964)町名が整理統合され、駕籠町の町名は消え、

今では駕籠町小・駕籠町公園などに、その名が残っている。

駕籠(かご)町小学校 学校概要 校名の由来
駕籠町
文京区 駕籠町公園

指谷(さしがやあるいはさすがや)

住所 現在は指ヶ谷小学校として残る。

【由来】

江戸時代、時の将軍3代目家光公がこのあたりに鷹狩りに赴いた際に、
まだ谷であった一帯を指し、そのうち人が住むであろうとおっしゃった為に「指ヶ谷」となったとされる。

【文京区】指ヶ谷町 – 旧町名をさがす会

【小石川①026】小石川指ヶ谷町 | 江戸町巡り

指ヶ谷町 – 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!


真砂坂(まさござか)

住所 現在は真砂坂公衆トイレなどとして残る。

【由来】東富坂(ひがしとみざか)の別名が真砂坂である。真砂坂の由来は不明のため、代わりに東富坂の由来を記載する。

現在の「東富坂」は新しい坂で命名時期は1908(明治41)年である。


本来の「東富坂」は、この坂の南を通る 地下鉄丸ノ内線に沿った
狭い急坂であり、現在は「旧東富坂」と呼ばれている。

また、命名時期は江戸時代とされる。

この「旧東富坂」の由来は


「むかし、文京区役所があるあたりの低地を二ヶ谷(にがや)といい、
この谷をはさんで、東西に二つの急な坂があった。

東の坂は、木が生い繁り、鳶がたくさん集まってくるので「鳶坂」と

いい、いつの頃からか、「富坂」と呼ぶようになった。
(『御府内備考』による) 

富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。
また、二ヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから

「飛び坂」ともいわれた。」

上記で「東西に二つの急な坂があった」と書いてある通り、西にも急な坂があります。

それが富坂(西富坂)である。こちらの由来でも鳶が共通している。

「江戸時代にはこの周辺に鳶が多く

「女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故鳶坂と云」と
江戸時代の仮名草子『紫一本』に書かれています。

この鳶坂(とびさか)が、あとになって富坂(とみさか)に

転じたようです。

江戸の地誌を綴った『御府内備考』には「年代不知富坂と書改候由申傳候」(年代はわからないが富坂と書き改めたと伝えられている)と
記録されています。

また、『御府内備考』には、「西富坂 幅六間三尺、長壹丁半程」と

書かれていますから、江戸時代の富坂の幅は11.3m、長さは160m
だったようで、現在の富坂は上り切るまで約300m近くありますので、
昔はかなりの急坂だったのが、現在のゆるやかな勾配に改修された
わけです。」

現在東富坂と旧東富坂は名称では残っているみたいです。

富坂(西富坂)は富坂警察署などの名で残っています。

profile/旧東富坂
profile/東富坂
富坂(とみさか) | TRY タウンガイド “文京風景”

番外編(2)


大和郷(やまとむら)

住所 現在は大和郷幼稚園などとして残る。

【由来】

大名庭園である六義園(りくぎえん)と深い関わりがある。

六義園は徳川五代将軍綱吉の側用人であった柳澤吉保が
1695年に土地を与えられた事に端を発する。

7年の歳月をかけて1702年に完成させた造園は六義園と名付けられ、

小石川後楽園と並ぶ江戸の二大庭園に数えられた。

その後、柳澤家は大和郡山へ転封()となるが、六義園を下屋敷として
そのまま使用したため“大和”の名が残りました。 

 転封(てんぽう)とは知行地(じがたちぎょう)、所領を

別の場所に移すことである。

また、「大和郷」は当初、「大和村」と表記されていました。

今の「郷」に変わったのは「苦肉の策」です。

もともと大和村というのは、「大いに和を為す村」という

意味がありましたが、当時の内務省から、

「東京市内に、行政区の“村”と同じ名前があるのはまぎらわしい」

と指摘されまして、名前を変えろということで、郷という
名前を付けたというのが、実際のところです。

知られざる東京の住宅街 大和郷(やまとむら)岩崎(弥太郎)一家、首相も住んだ街 | The Watch | 三菱地所リアルエステートサービス株式会社
六義園の邸宅街を支える「大和郷会」/一般社団法人大和郷会 理事長 田口邦臣さん・副理事長 伊東久信さん – マチノコエ


厩橋(うまやばし)

住所 隅田川に架かる橋

【由来】

橋名は西岸にあった「御厩河岸(おんまやがし:
蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)」にちなむ。

呼び名は他にもあり、御厨河岸(おんまいがし)がある。

渡しの呼び名も御厩(おうまや)の渡し・御厩(おんまい)の

渡しなどがある。

御厩河岸については冒頭で触れてるが、簡単に説明すると

米の運搬用に専用の厩(馬小屋のことである)があったことに由来する。

由来の元になった米蔵は、川岸にあった江戸幕府の「浅草御米蔵」を指し、その北側に付随施設の厩があったことによる。


元禄3年(1690年)に渡しとして定められ、渡し船8艘、船頭14人、
番人が4人がいたという記録が残る。

渡賃は人も馬も2文で武士は無料だった。

この渡しに限ったことではないのだろうが、渡し船では

事故が多発しており、「御厩の渡し」 は別名 「三途の渡し」 など
とも呼ばれていたという。

そんな中、明治 5年(1872) に多数の花見客を乗せた

渡し船が転覆事故を起こし、この渡しを利用する者が
ほとんどいなくなってしまうことになった。

それでも上流の 『吾妻橋』、下流の 『両国橋』 までは

かなりの距離があることから、不便を感じた地元住民が
その費用を出し合って明治7(1874)年に現在よりも
約100mほど下流の位置に有料の木橋 を架設したのが『厩橋』 の
始まりである。と同時に渡しは廃止された。

その後は維持管理の問題で架設は民間から明治20年(1887) には

東京府の管理になっている。

明治26年(1893) には木橋の老朽化でトラス鉄橋に

架け替えられたが、関東大震災によって大きな被害を受けている。

橋の崩落こそ免れたものの、火災によって木製の床は焼失し、

鉄製の構造部材も熱によって変形してしまったと言われている。

現在の 『厩橋』 は、昭和 4年(1929) に震災復興橋梁として

架設されたものである。

隅田川の渡し – Wikipedia
厩橋 – Wikipedia
御厩河岸 | 錦絵でたのしむ江戸の名所
http://www.geocities.co.jp/tokyo_ashy/bs-umayabashi.html
www.geocities.co.jp

御徒町(おかちまち)

住所 現在は御徒町駅などとして残る。

【由来】

江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が
許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する。

御徒町周辺に於いては長屋に住み禄(現在の給与)だけでは

家計を賄い切れず内職をし生活していた下級武士を指す。

御徒はそれぞれ組に属し、御徒組は本丸15組、西ノ丸5組が存在した。

各組の構成は頭1名、組頭2名、御徒28名から成り、将軍の行列の

先導や幕府御用の警護、江戸城中の雑用を職務とし、組単位で
屋敷地を拝領し、その組屋敷で暮らした。

『正保江戸図』(1644)には、地理的に軍事上の要所でもあった

下谷・浅草に組屋敷があった。

御徒町 – Wikipedia

(330)御徒町(おかちまち)の由来 | 江戸老人のブログ

御徒町物語(御徒町の歴史)|日本唯一の宝飾問屋街 ジュエリータウンおかちまち:JTO


吾嬬(あづまあるいはあずま)

住所 現在は吾嬬第二中学校などとして残る。

【由来】

「吾嬬神社(あづまじんじゃ)」に由来する。
祭神は「弟橘姫(おとたちばなひめ)」である。


弟橘姫は日本武尊(ヤマトタケル)の東征神話で、尊が相模より

房総へ渡る際、暴風雨に見舞われ、海を鎮めるために
“いけにえ” となり海中に没した人物。

その遺品が流れ着き葬って塚としたものが「吾嬬神社」の

始まりといわれる。吾嬬は「わが妻」の意味とされる。

現地名の立花(たちばな)も弟橘姫から来ているとされる。

立花 (墨田区) – Wikipedia
吾嬬町 – Wikipedia
吾嬬神社|墨田区立花の神社
昔の住所東京 向島区吾妻町今は何というのか知りたいのでご存じの方教え… – Yahoo!知恵袋


請地(うけじ)

住所 現在は請地児童遊園などとして残る。

【由来】諸説あり。

1.「浮き地(埋立地)」という説。

2.鎌倉・室町時代の荘園において地頭や荘官その他が

荘園領主に対して一定額の年貢の納入を請負っていた土地を
「請地」といったという説。

【本所①057】向島請地町 | 江戸町巡り
【墨田区】向島請地町 – 旧町名をさがす会

不入斗(いりやまず)

住所 

現存しない(現住所は東京都大田区大森北)

【由来】

起源は不入権から来ているとされる説が有力視されており、

これはかつて寺社領、荘園などで貢納の免税地であったことを
表す地名である。

「イリ」は奥という意味で、「ヤマ」は山、「ズ」は津(港)が

変化した音である。

解釈としては、「港から山の奥に入った土地」という意味になる。

日本には東京都大田区、千葉県市原市、同県冨津市、

神奈川県横須賀市などに「不入斗」という名の土地がある。

いずれも海の港から内陸部に入った場所である。

他に江戸時代にこの地は、幕府から鷹の餌を採る餌差が任命され、

鷹の餌となる小鳥(ハト・スズメ)などを捕まえた。

幕府領であったので租税はいらなかったのかも知れない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/不入斗
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000152206
https://inumimi.papy.co.jp/inmm/sc/kiji/1-1047474-84/
http://www.photo-make.jp/hm_2/ma_12iriarai.html

糀谷(こうじや)

住所 

糀谷は東糀谷と西糀谷に東西分割されたため、地名としての「糀谷」は現存しない。

【由来】

言い伝えによると昔農業の傍らに麹を造っている人たちが

いたからといわれています。
https://4travel.jp/travelogue/10869078
https://www.keikyu.co.jp/ride/kakueki/KK12.html

駒繋(こまつなぎ)

住所 

現在の東京都世田谷区下馬(神社や小学校で残る)

【由来】駒繋神社の由来しか見つからず。

文治五年七月(西暦1189年)源頼朝公が奥州の藤原泰衡征伐のため、
自ら大軍を率いて鎌倉を発しこの地に至った時に、往時義家公が
子の神(当社)に参拝したことを回想し、
愛馬より下りて駒(馬)を境内の松(駒繫松 現在は四代目を育てており
境内には松はありません)に繫いで戦勝を祈願したと言われており、
この故事により「子の神」が「駒繫神社」とも呼ばれるようになり、
明治以降に正式に「駒繫神社」と称せられるようになりました。
駒繋神社 由緒


廻沢(めぐりさわ)

住所 現在の東京都世田谷区千歳台(バス停などでは残る)

【由来】諸説あり

1.廻沢村は、昔は施沢、巡沢とも書き、このめぐり沢の名は

地形から付けられたものとされ、村の東に位置する東覚院の
本尊薬師如来像は、この地が水清らかな舟形の霊地であるから
安置されたといういわれがあります。

これを裏づけるのは、かつて東覚院の西北の窪地は雨が降ると

水が溜まる沢地で、そのためにこの水を烏山川へ落としていて、
いわゆる水めぐる沢だったのではないかといわれています。

2.渦巻く湧水とする説。

3.村の四隅を川沢が囲んでいたことに由来する説。

砧地域の地名の由来 | 世田谷区ホームページ砧地域の地名の由来を紹介します
世田谷・廻沢(粕谷) 
【世田谷区】廻沢町

厩道(うまやみち)

住所 東京都渋谷区千駄ヶ谷(厩道踏切で残る)

【由来】

内藤新宿寄りの地名 「厩通」、別名「おんまやどおり」。

江戸時代、内藤新宿は甲州街道の旅の起点であり、運搬に使われる馬の厩が 宿から少し離れた所にかたまっていたため、この地名が付いたとされる。

山手線が渡る橋・くぐる橋

番外編(3)


忍川橋(おしかわばし)

住所 東京都杉並区荻窪4丁目7(忍川橋として残る)

【由来】

江戸時代、この辺りは忍びの服部半蔵の領地があったことから
この名が付いたとされる。

忍川橋の辺りは江戸時代は下荻窪村で、伊賀忍者の棟梁、

服部半蔵の領地であった。

徳川幕府が開幕した頃はまだ世情が不安定で、諸藩の謀反から
江戸を守るため、忍びを一時期この地に居住させたという。

そのことから両岸を台地で挟まれたこの辺りの川沿いの

低湿地帯(谷戸)は、元は忍ヶ谷戸(シノビガヤト)と呼ばれていた。

しかし忍びは流言、放火、殺人など暗い印象を持たれることから、
地元住民はこの地名を好まず、やがて使われなくなった。

今では橋の名にその名残を留めているだけである。


ちなみに下荻窪村を知行した服部半蔵は、領内の百姓に博打を
奨励したという。

理由は博打目当てに全国から集まるならず者の口を通して
諸国の情勢をいち早く入手することにあったという。

しかし幕藩体制が安定してくると博打はご法度となり、半蔵は
国替えとなり、下荻窪村は日枝神社領になったと伝えられる。

ただ、伊賀者側(伊賀忍者側)に上下荻窪村を拝領した話はありません。


江戸移住にあたって拝領した村々の名前を、伊賀者たちは組の
由緒書に記していますが、どの由緒書を見ても荻窪の荻の字も
出てきません。

伊賀側には記録には残っていませんが、『杉並区の歴史』には
杉並区内20ヶ村の、宝暦8年(1758)の村高帳の内容を集計して
表にまとめたのが掲載されています。

 上荻窪村 64石6斗1升1合7勺
 郡代同心知行所
 伊賀同心植木・沢知行所
 伊賀同心大谷・鵜飼知行所
 二丸御留守支配同心知行所


伊賀同心が上荻窪村を知行していたと書かれています。


しかしながら、江戸中期以降において、同時代の伊賀者を

指し示すにあたって「伊賀同心」という名称は使われていません。

伊賀者ならばそのまま「伊賀者」と書かれます。

また、この植木・沢・大谷・鵜飼という姓は、伊賀者家筋の
由緒書から、同姓の者ですら見出すことができません。

これはつまり、可能性があるとしたら、伊賀出身の家ではないけれど

”伊賀者の役職”に就いている者か、もしくは、鉄砲百人組の
伊賀組同心ということが考えられます。

この鉄砲百人組の伊賀組の扱いは難しく、いわゆる伊賀者とは別の身分で、そもそも伊賀国と本当に関係があるのかすら実は判然としません。

上記の名前の挙がった中で重要なのは鵜飼で、彼と上荻窪村との

関係性は不明としながらも、もと御広敷伊賀者(伊賀者と名前のつく役職)であることを明らかにしています。

その典拠とする「寛政重修諸家譜」を見ると、

鵜飼はじめ安中を称し、のち鵜飼にあらたむ。


次兵衛政長、永禄十一年より仕へ奉り、其子権左衛門政尚、
御屋敷の伊賀者となり、夫より五代相続て政福にいたる。

●政福(まさよし)佐市郎。御広敷伊賀者より御広敷添番並となり、

後添番に遷(うつ)る。

ということで、伊賀国出身の伊賀者家筋では無さそうですが
(もしそうなら子孫がハッキリとそう書くでしょう)、確かに
「伊賀者」の業務を務めた者が、上荻窪村の一部を知行していました。

多摩のジョギング道−善福寺川水辺の道
荻窪に住んだ伊賀者の謎

姥橋(うばがばし)

住所

地名としては消滅。バス停に残る。

【由来】

姥ヶ橋は、かつての北耕地川(稲付川)に架かっていた橋の名です。

誤って子供を川に落して死なせてしまった乳母が、自責の念から
身を投げたと伝えられる橋。

紹介サイトによっては「姥」と「乳母」の意味合いの違いを
指摘するサイトもあります。

https://plaza.rakuten.co.jp/zoshigayasanjin/diary/200808250000/
https://tokyoriver.exblog.jp/15168263/

小榑(こぐれ)

住所

※現存せず。2013年当時は東京都練馬区北西部(大泉学園町、西大泉、南大泉)に相当する。

【由来】諸説あり

1.榑(ふ)は神木、クレは山出しの木材のこと。
村はコグレともヲグレとも呼んだ。コもヲも美称である。

2.高句麗(こくり)に由来し、古代朝鮮からの渡来者に
関係する地名の説。

https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/annai/rekishiwoshiru/kyuchimei/old_kogure.html
http://rein2000.c.ooco.jp/2009-06.html


蚕種石(こたねいし・こだねいし)

住所

相原蚕種石児童公園
※東京都町田市相原町の辺り


【由来】

現地には由来を記した由来版があり、下記が引用したのです。

「今を去る二千八百年前 公家筆頭中臣氏の祖先天種子命
(あまのたねこのみこと)と言ふ

武勲稀に見る命が神武天皇東征のみぎり はるばる九州
日向の地より天皇に従い抜群の大功を立てられたので
他の命達が此の高い功にあやかる為此處(このところ)

武州相模の里に天種子命のお姿として土に埋もれた
山石を清め蚕種石と名付け 代々あがめ伝えられるもので
特に此土地を蚕種石谷戸 と名付けられ今日に至っている

斯くて命は九州筑紫の国 莵狭(かずさ)に至り 國造の
女(むすめ)狭津子姫(けつこひめ)を娶り土地の豪族を
従え農産に励まれたと古文書にも記されている」


上記を分かりやすくした文

神武天皇の時代に遡る古い言い伝え神武天皇が東征のおり、
公家中臣氏の祖先天種子命が従い軍巧を上げたので、この地に
埋もれていた石を蚕種石と名付け、地名を蚕種石谷戸として
天種子命を崇めた。

その後、天種子命は、土地の豪族たちと
養蚕に励んだとのことが古文書にも残っている。


蚕種石の言い伝え

柴田家屋敷のの一角に石組みの台座にのった
「まゆの形」をした石が置かれている。

蚕種石と伝われて養蚕が盛んだった時代に農家の人達が
「蚕の守護神」として進行していた石で八十八夜が近づくと、
この石は緑色に変わって(苔の色が変化)農家の人達
「蚕のはきたての準備をしなさい」と知らせてきれたと伝えられている。

人麻呂が石見国で亡くなったのをその妻が悼んで詠んだ
「たままぎ」の歌の考察で蚕種石に触れている

「今日今日とわが待つ君は石川の貝[一云、谷に]に交じりて
ありといはずやも 万二二四

「貝(かひ)」の扱いに困り、「甲斐国」の
「甲斐」の「狭い谷」の意に靡いた解釈を促す注釈が付けられている。

折口は、これまでの考察をここに当て、「たままぎ」と
同時に、「たまごひ」の歌であって、(遠くで)亡くなった者の
たましいが「かひ」のようなものに籠り、それを探しに
行くことを詠んでいるとする。

亡くなった人の「たま」は、岩根のふもとの石や、川原の石の
なかに籠っていると見当がついており、これを求めに行くのが
「たまごひ」ということだ。

蚕玉石(こだまいし=こたねいし)の信仰も蚕を護るたましいが宿っていると思われる石を選んで持って来ることから起こったと述べる。」

https://plaza.rakuten.co.jp/himekyon2/diary/201906100000/
http://silk-teikei.jp/pdf/silk62.pdf
http://ooto-info.jp/spot/aihara/sakai/index7.html
https://tamura.fcs.ed.jp/blogs/blog_entries/view/492/2cf500382c8c979aa3eac3d1b7806c4a?frame_id=220
https://contre-jour.at.webry.info/200809/article_1.html

棒茅場(ぼうしば)

住所

現在の東京都江戸川区北葛西
※地名としては消滅。バス停に残る。

【由来】由来は定かではない

茅場というと茅(=カヤ・スゲ・ススキなどイネ科植物の総称)を
刈り取る場所といった意味になるので、 周囲を大小の河川に
囲まれた土地柄に因んだ地名と思われる。

https://wag-3.hatenablog.com/entry/20160506/1462462724
http://rekishi-roman.jp/miya-2/page-52.html


摺差(するさし)
古くからある地名は「摺差」だが、明治の初めごろには「摺指」が見られるようになる。

住所

※地名としては消滅。バス停には残る。

【由来】

焼畑を行っていた地名ではないかと推察する説。

「サス」が焼き畑を意味するため。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&ldtl=1&dtltbs=1&mcmd=25&st=update&asc=desc&ndc1=297&ndc_lk=1&id=1000197938
https://core.ac.uk/download/pdf/15917948.pdf

まとめ

東京以外の関東地方の難読地名が気になった方はこちらもどうぞ。
日本の難読地名と由来~茨城編~
日本の難読地名と由来~栃木編~
日本の難読地名と由来~群馬編~
日本の難読地名と由来~埼玉編~
日本の難読地名と由来~千葉編~

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