仙台駅から徒歩2分で行ける!鹽竈神社・三吉神社に行って来たら、島崎藤村や東北医科薬科大学病院にも関係した土地だった。

宮城県の神社・お寺

鹽竈神社と言うと宮城県塩釜市にある志波彦神社・鹽竈神社が浮かびますが、他にも複数ある鹽竈神社。
その中のひとつに仙台駅から徒歩2分で行ける鹽竈神社と三吉神社に行ってきました!

この記事では鹽竈神社(仙台市宮城野区)と三吉神社の主祭神・由緒などを紹介しています。
また、鹽竈神社(仙台市宮城野区)が建つ以前はは詩人で小説家の島崎藤村が下宿してた宿があったこともあるとのことで、島崎藤村についても触れています。

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鹽竈神社(仙台市宮城野区)の主祭神・例祭日・由緒などについて

主祭神 塩土老翁

例祭日 10月10日

別名 名掛丁塩釜神社

ご利益 

安産・交通安全に利益があるとされる塩竈市の鹽竈神社と同様の神徳を

有すとされるが、さらに縁結びや初恋成就にも利益があるとされている。

由緒

寛文12年(1672)仙台藩4代藩主となった伊達綱村は、塩釜の鹽竈大明神(塩竈神社)を
修造する際に原田甲斐を修造奉行に、三分一所典膳を副奉行に任命し、塩竈神社の奉幣及び勅額を
東六番丁にあった高福院境内に仮宮を設けて安置しました。

当時は神仏混淆の時代のため、寺院と神社が同居していました。

1680年に鹽竈神社が完成して御神体は塩釜に移されましたが『鹽竈神』を尊拝する町内の氏子が、
仮宮を廃殿につるには忍びないという思いから、新たに鹽土老翁神(しおつちのおじのおきなのかみ)を迎えて、その名を鹽竈大明神として大事に祀ってきました。

その後、明治20年に東北本線が開通すると、線路並びに仙台駅舎が東六番丁と名掛丁の間に
造られたために、高福院は荒町・満福寺に合祀され、また、明治維新後は神仏分離思想が
広まったために鹽竈神社の居場所がなくなってしまいました。

そこで、町内の氏子有志が東六番丁を挟んで東側にすでにあった三吉神社
(みよし神社・東六番丁29番地)の隣接地を買い求め、三吉神社境内に鹽竈神社を移築しました。

そして平成14年2月、仙台駅東区画整理事業にともない、この地に再度移築されました。
当神社は、安産・交通安全・縁結び・初恋成就などの祈願に多くの参拝者をあつめています。

上記は鹽竈神社宮城県神社庁を引用してますが、冒頭の鹽竈大明神(塩竈神社)を修造する年が
境内の年と大きく異なります。

伊達 綱村は万治2年1659年に生誕しており、1663年時には4歳、1672年には13歳です。

ずいぶん年齢に差があります。
冒頭の「仙台藩4代藩主となった」は家督を継いだ年と修造した年の違いか?と思いましたが、
違いました。

家督はお家騒動で、僅か2歳(満年齢で1歳4か月)で相続しています。
また、4歳時での特記事項はWikipediaでは見つかりませんでした。

13歳になると自ら政務を執り始め、仏教に帰依して寺院の建立、神社の造営に尽力とあるので、冒頭の話は1672年13歳の時の話かと思います。



主祭神 塩土老翁について

塩土老翁はWikipediaによると
シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。
『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、
『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)

名前の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神と解釈する説もある。

『記紀』神話におけるシオツチノオジは、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという
重要な役割を持っている。

海辺に現れた神が知恵を授けるという説話には、ギリシア神話などに登場する「海の老人」との
類似が見られる。また、シオツチノオジは製塩の神としても信仰されている。

シオツチノオジを祀る神社の総本宮である鹽竈神社(宮城県塩竈市)の社伝では、武甕槌神と
経津主神は、塩土老翁の先導で諸国を平定した後に塩竈にやってきたとする。

武甕槌神と経津主神はすぐに去って行くが塩土老翁はこの地にとどまり、人々に漁業や
製塩法を教えたという。白鬚神社の祭神とされていることもある

伝承
『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが
笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。

一書では、事勝国勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。

海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の
前に現れる。

ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、
そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは
海神が良いようにしてくれると告げる。

『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから
神武天皇は東征を決意したとある。

鹽竈神社宮城県神社庁引用
鹽竈神社 (仙台市宮城野区)ウィキペディア(Wikipedia)引用
シオツチノオジウィキペディア(Wikipedia)引用
伊達綱村ウィキペディア(Wikipedia)引用

島崎 藤村が下宿した三浦屋跡地が現在の鹽竈神社(仙台市宮城野区)

島崎 藤村は詩人で小説家で、仙台出身の詩人で英文学者の土井晩翠と共に「藤晩時代」あるいは
「晩藤時代」と並び称された方として思い浮かべる方も居るんじゃないでしょうか?

島崎藤村が東北学院の教師となった時に1896年(明治29年)11月から翌年7月まで
下宿してたのが三浦屋です。

この三浦屋跡地に建ったのが、現在の鹽竈神社(仙台市宮城野区)だと言われています。

三浦屋はその後、個人経営の保生医院となり、現在の東北医科薬科大学病院の始まりとなります。
ただ、経営側が変わってるので、個人経営がそのまま大きくなったわけではないです。

島崎藤村については、個人的に一言で表すならば波乱万丈や壮絶です。
Wikipediaを抜粋する(時系列順です。疑問が浮かぶかもしれませんが、集約と要約を
してるためです)

 1872年3月25日(明治5年)
2月17日 筑摩県の馬籠村に生れる。

 1886年(明治19年)
11月、父・正樹、郷里にて牢死。

 1892年(明治25年)
10月 明治女学校の教師となる。

 1893年(明治26年)
1月、交流を結んでいた北村透谷、星野天知らと『文学界』を創刊する。
教え子の佐藤輔子を愛したため明治女学校を辞め、キリスト教を棄教する。

 1894年(明治27年)
女学校へ復職。5月、北村透谷が自殺。

 1895年(明治28年)
兄・秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑(公文書偽造行使の疑い)のため収監される。

 1895年?
輔子が病没。この年再び女学校を辞職。

 1896年(明治29年)
9月8日 東北学院(仙台市)の教師として約1年間赴任。
10月25日 母・縫が死去。この頃から詩作を始め、『若菜集』を書き上げる。

 1897年(明治30年)
8月 処女詩集『若菜集』を出版。

 1899年(明治32年)
4月 小諸義塾に赴任。5月3日 秦冬子と結婚。

 1900年(明治33年)
5月 長女・みどり、生誕。「千曲川のスケッチ」を書き始める。

 1902年(明治35年)
3月 次女・孝子、生誕。

 1904年(明治37年)
4月 三女・縫子、生誕。

 1905年(明治38年)
4月小諸義塾を辞し上京。
5月 栄養失調により縫子死去。
10月 長男・楠男、生誕。

 1906年(明治39年)
3月 『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。
4月 栄養失調により孝子が死去。
6月 栄養失調によりみどりが死去。

 1907年(明治40年)
9月 次男・鶏二、生誕。

1908年(明治41年)
4月より「春」を『東京朝日新聞』に連載。
12月 三男・蓊助、生誕。

1910年(明治43年)
1月より「家」を『読売新聞』に連載。
8月 四女・柳子、生誕。妻・冬子、死去。このため次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来る。

1912年(大正元年)
有島生馬の装丁で『千曲川のスケッチ』を佐久良書房より出版。

1913年(大正2年)
4月 こま子と過ちを犯しこま子が懐妊【1912年(明治45年/大正元年)半ば頃から
こま子と事実上の愛人関係】したため、関係を絶つためにフランスへ渡る。

1916年(大正5年)
7月4日 – 帰国。こま子との関係が再燃する。
9月 – 早稲田大学講師に就任。

1917年(大正6年)
慶應義塾大学部文学科講師となる。

1918年(大正7年)
5月より「新生」を『東京朝日新聞』に連載。
帰国後改めて持ち上がったこま子との関係を清算しようとした。このため、親類の差配により、
こま子は台湾にいる伯父・秀雄(藤村の長兄)の元へ渡った(こま子は後に日本に戻り、
1978年6月に東京の病院で85歳で死去)。

1922年(大正11年)
婦人文芸誌『処女地』を創刊する。

1928年(昭和3年)
『処女地』の同人で24歳年少の加藤静子と再婚。

1929年(昭和4年)
4月より「夜明け前」を『中央公論』に連載。

1935年(昭和10年)
日本ペンクラブを結成、初代会長に就任。

1943年(昭和18年)
「東方の門」の連載を始めたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去した。
満71歳。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。

戒名は文樹院静屋藤村居士。大磯町の地福寺に埋葬された他、島崎家の菩提寺である
馬籠村(現・岐阜県中津川市)の永昌寺に分骨された。


親譲りの憂鬱

島崎藤村は自作で様々に「親譲りの憂鬱」を深刻に表現した。これは、
1.父親と長姉が、狂死した。
2.すぐ上の友弥という兄が、母親の過ちによって生を受けた不幸の人間だった
(不義の子とされる)。
3.後に姪の島崎こま子と近親相姦を起こしたが、こま子の父である次兄・広助の
計らいによって隠蔽された。
長兄・秀雄の口から、実は父親も妹と関係があったことを明かされた。などの事情による。


Wikipediaには三浦屋跡地に鹽竈神社(仙台市宮城野区)が建っているとのことで、境内にも
関係を示す看板が掲示してある。

島崎藤村と名掛丁東名会
「今から100年程前(明治29年)に木曽・馬籠生まれの島崎藤村が東北学院の
英語の教師として名掛丁・三浦屋に下宿し、ここから近代詩の魁になった「若菜集」が生まれました。

名掛丁東名会では、駅東第二区画整理事業が施工される中で、藤村の足跡や地域の歴史を
新たな街づくりに活かすことを念頭に取り組んできました。

この取り組みのひとつとして、平成3年に藤村の生まれ故郷である馬籠の
「藤村記念館」を表敬訪問し、その後も交流を続けてきました。

平成6年には「交誼の印」として記念館より藤村の生家跡に植えてあった「ミヤギノハギ」が
当町内会に寄贈され、、平成9年11月15日には、藤村記念館が創立五十周年を迎えるにあたり
名掛丁東名会がその祝賀会へご招待を頂きました。

そこで当町内会では、その「ミヤギノハギ」の花房を、宮城県の無形文化財の和紙職人
(故)遠藤忠雄さんに漉き込んでいただいた「白石和紙」に藤井仙台市長の揮毫を頂き、
藤村記念館に寄贈しました。

右の写真が記念館に寄贈したものです。

私たち名掛丁東名会は、藤村記念館との交流を通して宮城野の平安時代から続いてる
文学の風土がさらに豊かになることを願っています。

名掛丁東名会 平成14年2月17日設置

とあります。ただ、細かいことを言うと本当に跡地かと言うと疑問が残ります。
グーグルマップを使うと位置としては非常に近いですが、少し離れています。

鹽竈神社と三浦屋は宮城県仙台市名掛丁62番地(現・宮城県仙台市宮城野区名掛丁)の位置。

島崎藤村ウィキペディア(Wikipedia)引用
東北医科薬科大学病院ウィキペディア(Wikipedia)引用

三吉神社の由来や御祭神(三柱)などについて

境内には三吉神社の由来も掲示されています。

三吉神社の由来

ご祭神は秋田県中央に聳える出羽山系・太平山の山頂にある太平山・三吉神社に
「三吉大明神を分霊して祀っています。この太平山・三吉神社は1300年ほど前に、
役(えん)の行者・小角(おづぬ)が大己貴大神と少彦名大神を祀って創建したと伝えられ、
延歴20年(797年)には、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東北地方鎮撫の時、戦勝祈願をこめて
建立するなど、古代王朝の時代より「戦利成功」「諸事繁栄」の守護神として広く信仰を
集めてきました。

その後、太平山の麓の城主になった藤原鶴寿丸三吉は、武芸に優れ人望も厚く、人々から
名君と賞されておりましたが、大井太郎・五郎の妬みをかい、望まぬ戦さの挑発を受ける身に
なったために、太平山に引籠り、御祭神を深く信仰して厳しい修行を重ねて「現代神」になり、
宿敵を滅ぼしました。

人々はその威容に驚き、三吉大神として崇拝し、「郷土の神」として長年にわたって
祀るようになりました。

仙台の三吉神社は、建立者および時期は不詳ですが明治時代以前からこの地にあったと思われ、
三吉さんの愛称で、塩竈さまとともに住民の信仰を集めてきました。

また、当神社における神饌の中に全国でも珍しい煙草を供える事になったのは、三吉大神が
修行の折、太平山に多く住み着いていた大蛇を煙草をもって煙り攻めとし、退散させたことに
由来しています。

太平山三吉神社からの由緒など

御由緒
霊峰太平山に祀る当社は、天武天皇の白鳳2年(673年)5月、役の行者小角の創建と伝えられ、
桓武天皇延暦20年(801年)征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征討の際、戦勝を祈願して堂宇を建立、
奉納された御鏑は神宝として今に伝えられています。

古くからの薬師の峰・修験の山としての≪太平山信仰≫と、力の神・勝負の神を崇める≪三吉信仰≫が
あいまって、累代秋田藩主佐竹公の崇敬篤く、また戊辰の役では奥羽鎮撫総督九條道孝卿里宮に
祈願されるなど、古来より勝利成功・事業繁栄の霊験高い守護神として広く崇敬を受けております。

北海道から福島まで北日本各地、またブラジルサンパウロに祀られる三吉神社・太平山講・三吉講の
総本宮として【みよしさん】【さんきちさん】の愛称で親しまれ、全国より参詣者が訪れています。

平成19年10月には昭和天皇の第四皇女であらせられる伊勢の神宮祭主池田厚子様の
御参拝を仰ぎました。

御祭神(三柱)
大己貴大神 (おおなむちのおおかみ)(別称 大国主命・大黒さま)国作りの
神さま・縁結びの神さま・家庭円満の神さま

少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)病気平癒の神さま・医薬の神さま

三吉霊神 (みよしのおおかみ)秋田で生まれた守護神力の神・勝負の神・勝利成功・
事業繁栄の神さま

三吉信仰について

三吉霊神は力の神、勝負の神、破邪顕正の神である。曲がった事が大嫌いで、力持ち。
弱きを助け、邪悪のものをくじく神様である。

太平の城主藤原鶴寿丸三吉は郷人の面倒を良くみた名君であったが、他の豪族にねたまれ
追い出されたため、世を捨てて太平山に篭り、太平山の神様即ち大己貴大神、少彦名神様を
深く信仰し、修行せられて力を身につけ神様として祀られた郷土の神である。

霊験談は数多いが、明治元年戊辰役の際の霊験はあらたかであり、神さまの御神徳に感謝した
秋田藩主佐竹侯より太平山を遥拝する雪見御殿、すなわち現在の里宮の地を奉賽されたのである。

以来、特に勝利成功、事業繁栄のお社として、地元はもとより、北海道、東北、関東などの
遠方よりも熱烈なる信仰を持った崇敬者が訪れ、年々ご祈願の方々も多くなり現在に至っている。

太平山三吉神社引用

鹽竈神社・三吉神社の散策


仙台駅から徒歩2分で行ける鹽竈神社・三吉神社は住宅街にあります。

【塩竃神社参道】
この参道敷石は、元寺小路・福室線の麹による宮城野橋(通称X橋)架け替えにともない、
不用になった石材を名掛丁東名会(地元町内会)が仙台市より譲り受け、塩竃神社・三吉神社の
参道として再利用したものである。

X橋は大正十一年(一九二二年)に軍部の要請により建設された東北本線を跨ぐ陸橋であるが、
地元商店街の存続を無視した道路の新設計画に、町内会が一丸となり、後藤新平(東京七代市長)まで担ぎ出して反対運動を起こしたが、所詮軍部が相手では勝ち目無くX橋とともに新道路は建設された。

しかし、この道路はその後の車社会の到来とともに、仙台駅の東西を結ぶ幹線道路となり
市民の生活にも大きく貢献した。

このX橋の石材には、軍用道路としての強度が要求され、主に宮城と福島の県境にある
和田峠の石材が使われたが、一部、茨城県笠間市産の「稲田石」が使われた。

この石材を利用した同時代の建造物として「国会議事堂」「東京日本橋」「東京駅」
「明治神宮」等があり日本近代建築の歴史に大きく寄与した。

名掛丁東名会では、この石材を「町の歴史遺産」として参道に再利用し、
その歴史を、後世に伝えるものである。
平成二十三年十月十日

【X橋命名の由来】
軍の要請による新道の建設の為に、名掛丁と元寺小路の町を繋ぐ踏切は撤去されることになった。
その救済として、宮城野橋に連結する道路は、東西の名掛丁と元寺小路に二股に建設され、
その形が「Xの文字」に似ていることから「X橋」と呼ばれるようになった。

鹽竈神社

写真に撮ることに集中して賽銭してこなかった!撮らせていただいたのに失礼だな・・・。
次に立ち寄った時にはしよう。

すぐ横にはおみくじもあって買ってみてもよかった。

「鹽竈神社(仙台市宮城野区)の主祭神・例祭日・由緒など」で紹介してますが、鹽竈神社の
由来を読むと地元の方に深く愛され、必要とされていたのが分かります。

三吉神社

鹽竈神社に比べると小ぶりですが、綺麗にされていて大事にされているのが分かります。

神社やお寺は惹かれるものがありますが、家が大好きな私はなかなか足を運ぶことはないです。
でも、いざ行くと楽しいです。

鳥居近くに鎮座してる狛犬?の意味やそれこそ鳥居やしめ縄など調べると
面白そうな要素が一杯あるのも魅力的です。


最後に私が境内で特に気に入った草花(調べるとミヤギノハギかな?)です。

ここまで育つのにどれだけの年月が必要なんだろう?

迫力もありますが、癒されました。

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