日本の難読地名と由来~東京編~(中編3)

日本の難読地名と由来シリーズ

日本の難読地名と由来~東京編~(中編3)です。

日本の難読地名と由来~東京編~(中編3)

等々力(とどろき)

住所 東京都世田谷区等々力

【由来】※諸説あり
 1.等々力渓谷に流れ落ちる「不動の滝」の轟く音に由来するという説。

 2.等々力渓谷ができるまでに、繰り返し滝や崖が崩落したため、その崩落の轟く音から来たという説。(世田谷区の由来ではこちらが紹介されている。)

 3.現在の都立園芸高校の地にあった「兎々呂城」(「とどろじょう」の読みが「とどろき」と変化)を由来とする説。

https://ja.wikipedia.org/wiki/等々力_(世田谷区)

等々力 – なるほど! 東京 地名の由来
地名の由来(等々力・玉堤・尾山台) | 世田谷区ホームページ
等々力・玉堤「トドロキ」あるいは「トドロ」という地名は全国に多い。たいていは、川の流れの激しいところや滝のあるところである。

雑司が谷(ぞうしがや)

住所 東京都豊島区雑司が谷

【由来】※諸説あり。(古い文献には、「曹司谷」「雑士ヶ谷」などとも書かれ
ています。)

 1.元弘・建武(南北朝時代)の頃、京都の朝廷で雑式の職をつとめた柳式若狭、長島内匠、戸張次左衛門など、南朝の衰えを嘆いて官を辞し、この地に土着し、その子孫も村民として残りました。曹司とは郡領などの身分ある人の子息をさして言うので、この地名が起きたと江戸名所記に書かれています。
 雑司が谷が地名に定められたのは、八代将軍吉宗が放鷹のためこの地に来た時「雑司が谷村と書くべし」といわれてからと伝えられています。「谷」とは、この地に池袋の丸池を水源とした弦巻川が流れ、川に沿った谷間を形成していたと考えられ、この弦巻川は、雑司が谷八景の一つにうたわれた風光を誇り、夏は蛍、秋は月の聖なる川として流域の人々の生活を支えた。弦巻川も時代の波に押し流され、昭和4年に暗渠化され、今は形跡もありません。

 2.法明寺の雑司料の地だったことに由来するとの説。

わが町再発見
「雑司ヶ谷」の地名の由来
http://qboatkanto.web.fc2.com/itoburaritokyo/170.pdf#search=%27%E6%9D%B1%E4%BA%AC+%E9%9B%91%E5%8F%B8%E3%81%8C%E8%B0%B7+%E7%94%B1%E6%9D%A5%27

【番外編】

駒繋(こまつなぎ)

住所 現在の東京都世田谷区下馬(神社や小学校で残る)

【由来】※駒繋神社の由来しか見つからず。
 文治五年七月(西暦1189年)源頼朝公が奥州の藤原泰衡征伐のため、自ら大軍を率いて鎌倉を発しこの地に至った時に、往時義家公が子の神(当社)に参拝したことを回想し、愛馬より下りて駒(馬)を境内の松(駒繫松 現在は四代目を育てており境内には松はありません)に繫いで戦勝を祈願したと言われており、この故事により「子の神」が「駒繫神社」とも呼ばれるようになり、明治以降に正式に「駒繫神社」と称せられるようになりました。

由緒
世田谷区 駒繫神社は、前九年の役に源義家公、奥州藤原氏征伐には、源頼朝公が戦勝祈願を行った。願掛けで願いが叶う神社としての信仰があります。

廻沢(めぐりさわ)

住所 現在の東京都世田谷区千歳台(バス停などでは残る)

【由来】※諸説あり
 1.廻沢村は、昔は施沢、巡沢とも書き、このめぐり沢の名は地形から付けられたものとされ、村の東に位置する東覚院の本尊薬師如来像は、この地が水清らかな舟形の霊地であるから安置されたといういわれがあります。
これを裏づけるのは、かつて東覚院の西北の窪地は雨が降ると水が溜まる沢地で、そのためにこの水を烏山川へ落としていて、いわゆる水めぐる沢だったのではないかといわれています。

 2.渦巻く湧水とする説。

 3.村の四隅を川沢が囲んでいたことに由来する説。

砧地域の地名の由来 | 世田谷区ホームページ
砧地域の地名の由来を紹介します
世田谷・廻沢(粕谷) -せたがや百景シリーズ-: 菊と薊亭
芦花公園のほぼ隣に鎮座ましますガスタンク。かつてこの地は、「廻沢町(めぐりさわまち)」と呼ばれた場所で、昭和44年~46年に住居表示が実施された際に、千歳台1~6丁目などとなり、廻沢の地名はバス停や通りの名として残るのみとなっております。廻沢は廻り沢とも書き、村の四隅を川沢が囲んでいたことに由来しているそうです(千歳村...

厩道(うまやみち)

住所 東京都渋谷区千駄ヶ谷(厩道踏切で残る)

【由来】
 内藤新宿寄りの地名 「厩通」、別名「おんまやどおり」。江戸時代、内藤新宿は甲州街道の旅の起点であり、運搬に使われる馬の厩が 宿から少し離れた所にかたまっていたため、この地名が付いたとされる。

山手線が渡る橋・くぐる橋


忍川橋(おしかわばし)

住所 東京都杉並区荻窪4丁目7(忍川橋として残る)

【由来】
 江戸時代、この辺りは忍びの服部半蔵の領地があったことからこの名が付いたとされる。
 忍川橋の辺りは江戸時代は下荻窪村で、伊賀忍者の棟梁、服部半蔵の領地であった。徳川幕府が開幕した頃はまだ世情が不安定で、諸藩の謀反から江戸を守るため、忍びを一時期この地に居住させたという。
 そのことから両岸を台地で挟まれたこの辺りの川沿いの低湿地帯(谷戸)は、元は忍ヶ谷戸(シノビガヤト)と呼ばれていた。しかし忍びは流言、放火、殺人など暗い印象を持たれることから、地元住民はこの地名を好まず、やがて使われなくなった。
 今では橋の名にその名残を留めているだけである。ちなみに下荻窪村を知行した服部半蔵は、領内の百姓に博打を奨励したという。理由は博打目当てに全国から集まるならず者の口を通して諸国の情勢をいち早く入手することにあったという。しかし幕藩体制が安定してくると博打はご法度となり、半蔵は国替えとなり、下荻窪村は日枝神社領になったと伝えられる。

 ただ、伊賀者側(伊賀忍者側)に上下荻窪村を拝領した話はありません。江戸移住にあたって拝領した村々の名前を、伊賀者たちは組の由緒書に記していますが、どの由緒書を見ても荻窪の荻の字も出てきません。
 伊賀側には記録には残っていませんが、『杉並区の歴史』には杉並区内20ヶ村の、宝暦8年(1758)の村高帳の内容を集計して表にまとめたのが掲載されています。

 上荻窪村 64石6斗1升1合7勺
 郡代同心知行所
 伊賀同心植木・沢知行所
 伊賀同心大谷・鵜飼知行所
 二丸御留守支配同心知行所


 伊賀同心が上荻窪村を知行していたと書かれています。
 しかしながら、江戸中期以降において、同時代の伊賀者を指し示すにあたって「伊賀同心」という名称は使われていません。伊賀者ならばそのまま「伊賀者」と書かれます。また、この植木・沢・大谷・鵜飼という姓は、伊賀者家筋の由緒書から、同姓の者ですら見出すことができません。
 これはつまり、可能性があるとしたら、伊賀出身の家ではないけれど”伊賀者の役職”に就いている者か、もしくは、鉄砲百人組の伊賀組同心ということが考えられます。この鉄砲百人組の伊賀組の扱いは難しく、いわゆる伊賀者とは別の身分で、そもそも伊賀国と本当に関係があるのかすら実は判然としません。
 上記の名前の挙がった中で重要なのは鵜飼で、彼と上荻窪村との関係性は不明としながらも、もと御広敷伊賀者(伊賀者と名前のつく役職)であることを明らかにしています。その典拠とする「寛政重修諸家譜」を見ると、
鵜飼はじめ安中を称し、のち鵜飼にあらたむ。次兵衛政長、永禄十一年より仕へ奉り、其子権左衛門政尚、御屋敷の伊賀者となり、夫より五代相続て政福にいたる。

●政福(まさよし)佐市郎。御広敷伊賀者より御広敷添番並となり、後添番に遷(うつ)る。
ということで、伊賀国出身の伊賀者家筋では無さそうですが(もしそうなら子孫がハッキリとそう書くでしょう)、確かに「伊賀者」の業務を務めた者が、上荻窪村の一部を知行していました。

多摩のジョギング道−善福寺川水辺の道
荻窪に住んだ伊賀者の謎 - 忍びの館の忍者コラム
年がら年中、忍者のことばかり考えているのかと言うと、別にそういうこともなくて、他にも興味や関心は当然あるのですが、そういうものの1つに”暗渠(あんきょ)”があります。 先日、とっておきの暗渠に案内して頂けるというので、お呼ばれして行ってきたのですが、そのとき案内して下さった吉村生さんが、個人的にとっても気になるツイート...

まとめ

また、久方振りの日本の難読地名と由来シリーズ。全国網羅を考えるとあまりの多さに絶望してますが(笑)その時その時、書きたいことを気ままに更新していこうと思います。

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