日本の難読地名と由来~東京編~(中編2)

日本の難読地名と由来シリーズ

日本の難読地名と由来~東京編~(中編2)です。

亀戸(かめいど)

住所 東京都江東区亀戸

【由来】※諸説あり。

1.元々は亀井戸と書いたことに由来するものである。元々の地名は「亀島」(または亀ヶ島、亀津島)で、その名の通り亀の形に似た島であったことによる。
後に島の周辺に土砂が堆積して周りの島々と陸続きになり、亀島は亀村と呼ばれるようになった。これが、現在の亀戸三丁目附近にあった臥龍梅庭の井戸「亀ヶ井」と混同されて「亀井戸」と呼ばれるようになり、さらに「井」が取れて亀戸となった(亀津島の津(「つ」は古語で「の」の意)が「と」に変化したものとする説もある)。

2.「かみど(神戸)」であったという説。

【おまけ】
由来に出て来た臥龍梅とは江戸時代、江戸の東はずれに亀戸天神があり、ここから東は民家がきれ、田畑ばかりが広がっていた。
亀戸天神から北東400メートル足らずの場所に臥龍梅があった。農家の梅であるが、享保九年に吉宗が隅田川辺への鷹狩の途次たち寄って、世に知られた。
創始の伊勢屋彦右衛門という人は本所に住む商人であったが、風雅を好んで別荘をつくって、梅をたのしんでいた。梅は成長して奇木となって、龍が地面に臥すような形で四方に枝をのばした。地についた枝から根を生じ、そこから新しく枝を出すというように、まわりに広がっていった。伊勢屋の子孫はここに住んで農業を営み、臥龍梅を育てつづけた。吉宗がきて以来、臥龍梅は御用木となっていたのである。寛政四年(1792年)ごろには、もとの臥龍梅は枯死したが、枝から次々と根を出すので、二代、三代と臥龍梅がついていた。臥龍梅は、一本から分かれた梅だけであったものを、遊客がふえるにつれて、梅を数百本にふやし、茶屋をつくって客をもてなすようになった。臥龍梅が梅屋敷へと発展したものである。

亀戸 – Wikipedia

江東区の地名由来|江東区

東雲(しののめ)

住所 東京都江東区東雲

【由来】

古い言葉で「闇から光へ移行する、夜明け前の茜空」を意味する東雲が地名として採用されました。
この東雲(しののめ)とは篠の目(しののめ)が語源になっています。
「篠の目」とは昔は、細目の竹である篠竹(しのだけ)の笹や竹を編んで明り取り用の窓や、間接照明用の被せ、仕切りに使っていました。
そして、朝日が昇る時に、明り取り用の窓の網目(篠の目)からさす光の紅く美しい様が、東の空にかかった雲が日の出とともに紅く染まる美しさと重なり、
東の雲 = 篠の目(しののめ)となったそうです。
https://www.facebook.com/tokyosaihakkenproject/posts/549141245137564/
https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/joho/6379.html
https://jp.quora.com/東京有明エリアの東雲の由来はなんですか 篠の目の参考画像あり


碑文谷(ひもんや)

住所 東京都目黒区碑文谷

【由来】※諸説あり。ただ、応永32年(1425年)の「日運記」の中に碑文谷ひもんやという地名が著されている。

 1.八幡宮境内に保存されている「碑文谷石」が起源という説。

 2. 鎌倉・室町時代のころから桧物・檜物(ひもの ※ヒノキを使った曲げ物)作りが盛んだった説。

 3. 「世田谷城名残常磐記(せたがやじょうなごりのときわぎ)」にある「秘文(ひもん)の谷」「秘文(ひもん)の谷」が語源説。

 4.忠玄法師(日源上人)忠玄法師(日源上人)が卒塔婆に碑文を書いて、この地に埋めたために起こった説。
 5.「碑文谷」「ひものや」「桧物屋ひものや」の意味するところは全く同じで、その中から一番使用される数が多かった「碑文谷」が地名として残った説。

その中で一番有力なのが、由来1の「碑文谷石」が由来という説です。
この「碑文谷石」は、現在でも碑文谷八幡宮の境内にある稲荷社に祀られています。
これは高さ約75cm、横約45cmの石に、梵字が彫られているもので、当時の人々の信仰を知る上での貴重な資料となっています。

※梵字(ぼんじ)とは、紀元前にインドに発達したサンスクリット語を表記するために用いられた字体。
密教においては仏の活動を表わすと考えられていて、一字一字が意味をもっています。

碑文石(ひもんせき) 説明板から
『この碑文石は、碑文谷の地名の起こりとなったともいわれ、当碑文谷八幡宮では信仰の遺物として、また歴史資料として、大切に保存に努めてまいりました。
碑文を彫った石のある里(谷)という意味から碑文谷の地名が起こりました。
碑文石の近くの呑川の川床に露出いていた上総(三浦)層群の砂岩で、普通、沢丸石〔サワマルイシ〕とよばれる石を材料としています。この碑の上方には、中央に大日如来(バン)、左に熱至菩薩(サク)、右に観音菩薩(サ)の梵字が刻まれており、大日を主尊とした三尊種子の板碑の一種とみられます。
高さ七五センチヽ横(中央)四五センチ、厚さ一〇センチ、上部が隅丸、下部が下脹れのやや角張った形をししております。
碑大石は、昔、碑文谷八幡宮の西方を通っていた鎌倉街道沿いの土中に理埋まっていたものと伝えられ、大日と異系のニ種子を会わせて表わしているので、恐らく、室町時代のものとみられます。
江戸時代の名著「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」などに碑文石のことが書かれています。この碑文石には造立の趣旨や紀年は彫られていませんが、中世の人びとの信仰状況を知る上に貴重なものです。
昭和五十八年四月   碑文谷八幡宮』

また、土中に埋められていた理由にたたりのため土中に埋めたと「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」「帝国地名辞典」に記されていることなどからいわれるようになりました。
ただ、昭和7年発行の「碑衾町誌」によると、碑文石起源説は、単に古伝説を根拠としただけで、碑文谷の地名ができたのは、もっと時代をさかのぼると書かれています。

また、由来4の卒塔婆についてはこれら三文献と貞享4年(1687年)の「江戸惣鹿子」には、忠玄法師(江戸名所図会では日源上人とある)が卒塔婆に碑文を書いて、この地に埋めたために起こった名だとも記されている。

由来5の「碑文谷」が一番使用される回数が多く残った説は円融寺えんゆうじにまつわるもので、天台宗の寺として仁寿3年(853年)に開基されたといわれ、弘安6年(1283年)には由来4で出てきた忠玄法師(日源上人)によって日蓮宗妙光山吉祥院法華寺に改められた。その後、天台宗に復し、現在の円融寺となりました。
円融寺えんゆうじには、天正13年(1585年)、法界塚付近の土地が同寺へ寄進されたときの書状があるが、その1行目では碑文谷法華(花)寺と記しながら、終わりの方では、武蔵国ひものや郷中と書いてある。また「江戸図屏風」には、桧物屋法華寺と桧物屋御鞭打(袋竹刀を振って打ち合う騎馬戦)が描かれている。天正19年(1591年)の「寺領寄進状」のように、武蔵国荏原郡桧物屋之内と記されている例もある。
しかしながら、「ひものや」「桧物屋ひものや」と書かれた文書は数が非常に少く、今までに残っている古文書の中では「碑文谷」という文字が一番多く使われている。これは、人々が「ひものや」あるいは「ひもんや」と発していた言葉を表記する際、「碑文谷」「ひものや」「桧物屋ひものや」という文字があてられたと考えることができる。従ってこの3つの文字が意味するところは全く同じものを指し、その中から一番使用される数が多かった「碑文谷」が地名として残ったのではとされる。

由来2の桧物・檜物説は檜物(ひもの)という語は、古く用明天皇時代(585年ころ)の職人名にもあったと伝えられる。檜物とは、神社の柄杓(ひしゃく)、三宝や佃煮の容器などで、鎌倉時代になると各地に檜物屋が繁盛し、江戸時代には、今の八重洲や麻布にもあったという。碑文谷の地は、鎌倉街道沿いで古くから開けており、鎌倉・室町時代のころから檜物を業とする職人がいて、それが地名になったという説である。江戸図屏風に、「ひものや法花寺(今の円融寺)」とあり、法花寺文書にも、「武蔵国ひものや郷中」と記されているのが根拠とされる。

由来3の「秘文の谷」説は碑小学校(いしぶみしょうがっこう)八十五年史によると、鈴木堅次郎氏の「世田谷城名残常盤記」に、秘文の谷(ひもんのや)が語源で、その中の「ん」が消音されて、「ひものや」となり、それに碑文谷の漢字が当てられたとあるそうです。
https://www.jk-tokyo.tv/zatsugaku/249/ 碑文石の参考画像あり
https://ja.wikipedia.org/wiki/碑文谷
https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/nanbu/himonya.html
https://www.city.meguro.tokyo.jp/smph/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/chimei/nanbu/himonya.html


粕谷(かすや)

住所 東京都世田谷区粕谷

【由来】※諸説あり
 1.洪水などで上流から土砂が流れてきて、埋まった堆積地のこと。

 2.旧粕谷村。鎌倉時代に糟谷三郎兼時という土豪が住んでいたことに由来する。当初は糟谷村だったが、江戸時代に粕谷村となった。
https://folklore2017.com/timei100/071.htm


砧(きぬた)

住所 東京都世田谷区砧

【由来】※諸説あり
1.古く7、8世紀のころ、朝廷に納める布を衣板(きぬいた)でたたいて柔らかくし、つやを出すために使った道具から生まれたといわれています。女の人の夜なべ仕事として砧の音が響いたことや、その布を染め、多摩川の清流にさらして洗ったことなどは詩情にもうたわれてきました。
また、サイトによっては朝廷に布を納めたのは多摩川流域に住みついた朝鮮半島からの渡来人が、税として大和朝延に納めたと紹介されています。

2.けぬ(毛野)・と(所)の転で、荒れ地とする説。
https://www.city.setagaya.lg.jp/theme/kanko/002/003/004/d00120613.html
https://www.setagaya-old.com/seijou-area_kinuta1.html
https://baba72885.exblog.jp/23353445/


【おまけ】

不入斗(いりやまず)

住所 現存しない(現住所は東京都大田区大森北)

【由来】
起源は不入権から来ているとされる説が有力視されており、これはかつて寺社領、荘園などで貢納の免税地であったことを表す地名である。
「イリ」は奥という意味で、「ヤマ」は山、「ズ」は津(港)が変化した音である。解釈としては、「港から山の奥に入った土地」という意味になる。
日本には東京都大田区、千葉県市原市、同県冨津市、神奈川県横須賀市などに「不入斗」という名の土地がある。いずれも海の港から内陸部に入った場所である。

他に江戸時代にこの地は、幕府から鷹の餌を採る餌差が任命され、鷹の餌となる小鳥(ハト・スズメ)などを捕まえた。幕府領であったので租税はいらなかったのかも知れない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/不入斗
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000152206
https://inumimi.papy.co.jp/inmm/sc/kiji/1-1047474-84/
http://www.photo-make.jp/hm_2/ma_12iriarai.html


糀谷(こうじや)

住所  糀谷は東糀谷と西糀谷に東西分割されたため、地名としての「糀谷」は現存しない。

【由来】言い伝えによると昔農業の傍らに麹を造っている人たちがいたからといわれています。
https://4travel.jp/travelogue/10869078
https://www.keikyu.co.jp/ride/kakueki/KK12.html


感想

何年ぶりか分からない難読地名シリーズ。久しぶりに調べたが、東京だけでも先が長い(東京だからこそか?)
難読地名シリーズもアフィリエイトでお金を稼ぐために始めたが、難しいので、のんびり書きたくなったら記事にしていこうと思います。


コメント

タイトルとURLをコピーしました