豊田有恒さん著書「本当は怖い韓国の歴史」で印象に残った所を抜き出してみた。

印象に残った本

豊田 有恒(とよた ありつね、1938年5月25日 )は

日本の作家。SF作家、推理作家、翻訳家、脚本家、評論家。島根県立大学総合政策学部名誉教授。

日本SF作家クラブ会員。

 参考

豊田有恒 – Wikipedia

今回読んだ豊田有恒さんの本「本当は怖い韓国の歴史」

本文で印象に残った所

P17~18

韓国人は、しばしば<反万年歴史(パンマンニヨルリヨクサ)>と言いたがる。5000年というより、半万年というほうが、悠久の歴史のように見えるからだろう。長い歴史を持っているという誇りが、その背景となる。

また、歴史の黎明期には、現在の中国領となっている東北地区(旧満州)にまたがる広大な領土を持っていたとする自負心も、また民族心理として、背景の一部を成している。

しかし、そうした大国願望の裏には、過酷な歴史の背景がある。

古代史書三国史記』から数えて、近世に至るまで、朝鮮半島は、実に九六0回も、異民族の侵入を受けている。

その多くは、近接する中国のものか、あるいは中国を征服した異民族が、余勢を駆って侵入してきたケースである。

多くは、国境侵犯の小競り合いだが、大規模な侵略のケースも少なくない。

こうした際、まず、国境を守る軍隊が壊滅する。続いて、地方政府が崩壊し、官史も軍人も逃亡し、敵軍が国内へ雪崩れ込んでくる。

やがて、中央政府も、抵抗むなしく降伏する。

モンゴル軍の侵略のときなど、朝廷だけは江華島(カンファド)に逃げ込み、身の安全をはかった。

王さまと貴族だけは無事だが、その間に、国土はモンゴル軍に蹂躙され、庶民は塗炭の苦しみに喘いでいた。庶民は、戦乱の巷で、多くは命を失い、逃げのびた者も、自分だけの才覚で生き抜くしかなくなる。

こうした歴史を背景に、韓国人の国民性が作られてきた。

まず、韓国人は、決して譲らない。下手に譲歩すれば、相手が異民族なら、さらに過大な要求を突きつけられたりする。

また、韓国人は、非を認めない。軽々しく非を認めたりしたら、相手の異民族に殺されるかもしれない。それていて妙に人なつっこく、なれなれしいところがある。一人でも味方を増やさないと生きられない歴史だったからだ。

P20~21

高麗王朝のころ、占領したモンゴル軍は、人家を捜索して、美女を拉致連行した。

こうした悲劇は、モンゴル軍だけが行ったわけではない。

その後の明、清などの中国王朝に対しても、進献色(しんけんしょく)という美女を献上する方針が続けられる。

歴史上ずっと、征服された相手に美女を献上してでも、占領の惨禍を免れようとしてきた歴史なのである。

日本も、当然、美女を攫って、従軍慰安婦にしたに違いないという予断と偏見が、ありもしない従軍慰安婦という問題を生んだのだが、その背景には、常に同胞の美女を略奪されるという悲しい歴史があったからだ。

P52~56

魏志』には、弁韓に狗邪(くや)国という地名が出ている。

現在の韓国語で読めば<クサ>となるが、狗耶(クヤ)と筆写されているケースもある。

狗耶(クヤ)と伽耶(カヤ)、同一の地名である。ここで、『魏志東夷伝』の『和人条』の冒頭を口語訳してみる。

「和人は帯方郡(たいほうぐん)の東南の海上にいる。山ばかりの島で、国や集落を営んでいる。昔は百カ国ばかりあって、漢の時代には、貢物を持ってくる国もあった。

現在、使者や通訳がやってくるのは、三十国ちょっとである。

郡(帯方郡)から和の国へ行くには、海岸に沿って航行していく。

韓国を通るあいだ、南へ行ったり東へ行ったりするうちに、その北岸の狗邪韓国(クサハングク)に着く」

~注意すべき点がある。その北岸の狗邪韓国に着くーという部分である。

“その”と書いてあるから、倭国のという意味だろう。

狗邪韓国は、倭国の北岸、つまり倭国の一部のように読めるのである。

また、『韓条』にも、奇妙な記述がある。

まず、冒頭に、こうある。

「韓は帯方郡の南にあって、東西は「海で終わっているが、南は倭と接している

接しているということは、領土が接しているということである。

韓国南部から、対馬壱岐を経由して、北九州へ行くとする。北九州は邪馬台国がどこにあったかを別としても、まちがいなく倭人のテリトリーだが、韓と接しているわけではない。

韓の東西は、海で終わっているというが、現在の韓国の地図を見れば判るように、南も海で終わっているわけで、倭(日本)と接しているなどと言えば、大問題になるだろう。また『韓条』の最後に、「弁辰(ピヨンチン)<弁韓>の瀆盧(トンノ)国は、倭との境界を為している」とある。

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また、『後漢書』にも奇妙な記述がある。北九州にあった奴国(なこく)を、「倭国の極南界」だとする。

極南海とは、南の果てという意味である。北九州が、倭国の極”北”界(北の果て)だというのなら、良く判る。北九州より北は海だから、その先は対馬壱岐、そして韓国ということになる。倭人が現在の韓国領にいたと考えれば、北九州が、その倭人の極南海だという記述も、判らないこともない。

これらの記事を、素直に読めば、韓国の南部に倭人がいて、領土を接していたことが、明らかである。

このことは、中国側、韓国側の文献ばかりではなく、日本側の資料からも確認できる。

日本書紀』によれば、日本は、朝鮮半島の南部に「任那(みまな)」という領土を保有していたとされる。

任那は「内宮家(うちつみやけ)」だったと説明されている。

「内宮家」とは、朝廷の私的な領土という意味だろう。また、任那には「日本府」という官衙(かんが)<役所のこと>があったと記されている。

ここまでは記録されていることである。

P84~85

倭は、現在の北朝鮮、中国東北地区にわたる高句麗とは、縁がなさそうに見える。しかし、高句麗に関しては、世界的な文献資料が別にある。

そこに、倭についての記述があるのだ。

専門語では、金石文(きんせきぶん)というのだが、有名な「広開土王碑」というものがある。

現在は、鴨緑江(アムノクカン)の北の中国領輯安(しゆうあん)にある。

この碑文に驚くべき内容の記事がある。

「倭以辛卯年 来渡海 被百済、〇〇(判読不明箇所)、新羅、以為臣民」読み下せば、こうなる。

「倭は、辛卯(しんぼう)年(西暦391年)を以て、来りて海を渡り、百済、〇〇、新羅を破り、以て臣民となす」

遠く離れた中国領にある高句麗の「広開土王碑」に、倭人の侵攻のことが記録されているのだ。

驚くべきことである。

P95~96

定琳寺(チヨンニムサ)には、宝物(ポームル)(日本の重要文化財にあたる)の塔がある。しかし、百済のものではない。

百済を破壊した唐の蘇定方将軍が建てた<平済塔(ピヨンジェタプ)>、つまり百済を平定した戦勝記念碑なのである。征服者が建てた記念碑を、皮肉にも宝物として保存しているところに、韓国の悲しみがある。

こうした心の底に沈んでいる悲哀を、韓国人<恨(ハン)>と呼んでいる。 

P209

主義主張を真っ先に立てて、あくまで自己主張を貫くことが、韓国人の得意技だが、きちんと検証してもらいたい。

過酷な歴史から創られた、相手の言い分を聞かない民族性だから、韓国人は、自己主張はあっても、論法は苦手である。

大声を出して、高圧的に相手を黙らせるという方法論しかないのが、問題なのだ。

P213

山海経(せんがいきよう)」の第十八巻「海内経(かいだいきょう)」の記事を引用してみよう。

「東海の内、北海の隅に国あり。名は朝鮮」とあってから、金、銀、鉄などが採れるとし、淮山(わいさん)、好水(こうすい)など未詳の地名が続く。興味深いのは、この後である。

黄帝(こうてい)の妻雷祖(らいそ)は昌意(しょうい)を生み、昌意は降って若水(じやくすい)に住み、”韓流”を生む。”韓流”は、首長くして謹耳(きんじ)<意味不詳>、人間にして豕啄(したく)<豚のような口>、麟身にして股(もも)大きく、豚趾(とんし)<豚の足>」

つまり、韓流というのは、伝説の五帝の一人黄帝の妻の孫にあたる怪物なのである。

読者の皆さん、恐ろしい怪物<韓流>に気をつけよう。

感想

韓国人の譲らない、非を認めない民族性を知るきっかけになればと思い、読みましたが、韓国は奪われる歴史のために、他民族や他国に対する人間不信が現在の韓国を形成したのかな、と感じました。

奪われる前に奪う、奪えそうなら奪うチャレンジをしてみる。

国として付き合うには難しい国だと思います。

倭国時代には現韓国に領土を持っていたという見解は面白いもので、出土品など多方面から分析したものがあったら読んでみたくなりました。

 豊田有恒先生、良い本をありがとうございます。

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